旧制姫路高等学校本館と講堂
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旧制姫路高等学校・本館
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1926年(大正15年)完成の本館と講堂は、いずれも木造。1999年(平成11年)国の登録有形文化財、姫路市の都市景観重要建築物に指定。
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旧制姫路高等学校・講堂
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東光寺
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もとは、八代御茶屋町にあったが、伏見天皇が当寺を離宮にしたといわれている。後に、法燈国師・赤松円心が再興。1484年(文明16年)焼失。1603年(慶長8年)池田輝政が荒廃ぶりを嘆き、八代東光寺町に再建した。
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伝伏見天皇離宮址の碑
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伝伏見天皇(鎌倉時代中・後期)離宮跡の碑。この石碑は伏見天皇の離宮があったというので、1930年(昭和5年)郷土史家・矢内氏が中心となって設置。
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御茶屋跡
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1603年、八代御茶屋町に、池田輝政が別荘(御茶屋)を造営。この場所は前から東光寺があり、伏見天皇(鎌倉時代)の離宮でもあったことから、寺を西に移してその後に建てたと言われている。その後、姫路藩の歴代城主も使用したが、酒井家の時廃止となった。
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町裏浄水場
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町裏浄水場(まちうら)は、1925年(大正15年)野里小学校増築工事中に発見された湧水がきっかけとなって1929年(昭和4年)に竣工された。ポンプアップして男山配水池に送水している。敷地内には旧事務所、沈殿池節制室が当時のまま残されている。1985年(昭和60年)5月近代水道百選に選ばれています。
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白川神社
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昔々、近くにあった火薬庫が爆発し、目を悪くした人達が白川神社の御神徳(ごしんとく:神の恵み)で回復。その後、地元では「目の神様」として信仰され、今でも遠方からお参りに来られています。
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兵庫県立姫路紡績所跡
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職を失った士族を助け、産業を盛んにするため国の補助を得て兵庫県が建てた模範工場で、水車と蒸気機関で稼働する設備を設けた。しかし、欠損が重なり、1888年(明治21年)民営の姫路紡績株式会社を設立、1899年(明治32年)11月出火のため焼失。民家の軒下にあります。
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大日本帝国播陽時計製造会社
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1873年(明治6年)、明治政府は田中久重(ひさしげ:東洋のエジソン)の高弟(こうてい:特に優れた弟子)・田中精助に時計技術を習得させるため、オーストリア・ウイーン万博に派遣。帰国後、精助は廃藩置県で禄を失った旧姫路藩士を姫路の訓練施設「授産所」で時計技術を伝習。その後この授産所出身の旧姫路藩の鉄砲・刀鍛冶職の篠原右五郎を中心に上月宗七・児島源太郎ら旧士族で公債を資本として1875年(明治8年)設立し、1883年(明治16年)「ぼんぼん時計」を制作。1875年(明治8年)原月社、開成社、白鷺時計、播陽時計会社(姫路市八代本町1丁目)と社名を変え、1890年(明治23年)に閉鎖。
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東山焼き
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東山焼は、姫路市東山に始まったが姫路藩・家老・河合寸翁が姫路藩のお庭焼にとりたててから男山へ移った。窯は不動院墓地の南にあったといわれています。
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<池田弥七>
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東山焼窯元の棟梁(とうりょう)であった池田弥七(明治10年没)が考案した「弥七コンロ」は好評で、昭和40年代まで需要がありました。
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男山八幡宮
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1345年(貞和元年)、赤松貞範が姫路城を築くときに男山の山頂に創祀し、城の鎮守社としたと言われています。1679年(延宝7年)には松平直矩が、1716年(正徳6年)には榊原政邦がそれぞれ社殿を改修したという記録が残っており、歴代の姫路城主が信仰したと言われています。
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千姫天満宮
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男山千姫天満宮は、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。2002年(平成14年)4月に社殿を新築。
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姫路文学館
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姫路文学館は、世界文化遺産・姫路城の北西に位置し、建築家・安藤忠雄氏の設計によるユニークなデザインで、1991年(平成3年)4月、市制100周年記念事業の一環として開館。南館には。姫路市ゆかりの「司馬遼太郎記念室」がある。
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望景亭
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大正期に建てられた日本家屋を補修したもので、40畳の和室と茶室を備えています。貸室対象になっているので、文化的な催しに最適。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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2017年3月18日土曜日
伏見天皇離宮跡があった「八代」を訪ねて
2017年3月4日土曜日
大野の里と呼ばれた「野里」を訪ねて
野里について
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「播磨国風土記」では、大野(荒野のことを大野という)の里と呼ばれ、後に、大野里を略して「野里」と呼ばれるようになったそうです。中世は、大日から日吉神社までの地域をさし、金屋町・橋之町周辺には、西国街道の宿場として「白井の宿」がありました。その頃、農具や鍋・武具などを作っていた豪族・芥川家(鋳物師惣管職)が大きな勢力を持っていました。1578年、豊臣秀吉が中国征伐で姫路に入国、但馬街道沿いを基盤にした城下町がつくられました。池田輝政の新しい町割りにより、野里は「外町」として、鍛冶職を中心に職人が集まり、北播磨・但馬方面からの物資集散の地、随願寺の門前町として栄えました。
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日吉神社
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明珍火箸
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明珍火箸は、19世紀のはじめ甲冑師がその技術を生かして火箸を作ったことが始まりです。火箸の型は、約20種類あり、代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワクギ型の4種類です。最近では、火箸を利用して風鈴が作られていますが、火箸が触れ合ったときに奏でる澄みわたった音色は、日本的な風流を兼ね備えた逸品です。1993年(平成5年)兵庫県指定の伝統的工芸品に指定されています。
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野里の古い町並み
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慶雲寺
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1443年天台宗として創建。1577年南景和尚により臨済宗に改宗。宗夢(そうむ)童子像は姫路市の文化財に指定されています。境内には、光正寺から移された「お夏・清十郎」の霊を祀った比翼塚(ひよくづか:相愛の男女を一緒に葬った墓)があり、お夏・清十郎を想う市民や観光客が今でも訪れています。
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芸能のお寺・光正寺
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慶雲寺の塔頭(たっちゅう)は4ケ寺ありましたが、本寺のみ現存。慶雲寺の観音堂として隣に建っています。南景和尚によって播磨西国三十三ケ所の観音霊場が設定され、当寺は五番霊場です。本尊の如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)は鎌倉時代の作といわれ、池田輝政後室・督姫(とくひめ:家康の次女)の念持仏と伝えられています。また、ここ光正寺の玉垣には江戸末期・大阪の歌舞伎役者・二代目・尾上多見蔵(おのえたみぞう)ら高名な歌舞伎役者の名前も見られます。お夏・清十郎が歌舞伎で上演されたことから、当時、江戸や大阪の著名な演劇や舞踊の関係者が多く参詣に来られていたそうです。
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固寧倉
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1809年(文化6年)飾西郡町村組大庄屋らが飢饉や災害などの非常時に備えるため穀物を貯える倉庫の建設を当時の家老・河合寸翁に建議、藩主・酒井忠道がこれを取り上げ、領内に米麦貯蔵用倉庫「固寧倉(こねいそう)」が設けられたのが始まりです。1846年(弘化3年)288ヶ所に設けられたそうです。現在野里を含め飾磨・東山・中村・刀出の五ヶ所が残るのみです。
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雲松寺
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随願寺の末寺といわれ、開基は不明。当初は臨済宗でしたが、寛文年中に黄檗宗(おうばくしゅう)に改宗。山門には実伝の師・木庵(もくあん)の扁額(へんがく)がある。境内には、本堂のほか位牌堂(いはいどう)、経堂(きょうどう)、地蔵堂などがあり、境内も美しく整備されています。また、境内にある北向地蔵は、安産・足腰の痛みにご利益があるといわれています。
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ノコギリ横丁
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道路脇がノコギリ状で家屋もそれに沿って立つ街並みのことで、金屋町・八木町・福居町・橋之町・福本町・米屋町界隈で今も残っています。
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姫路城外濠跡碑
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清水門から野里堀留町までの約5km、このほとんどが埋め立てられています。姫路市出身の元東大寺管長清水公照の揮毫(きごう:知名人が頼まれて書をかくこと)です。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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