2017年5月31日水曜日

姫路の「お夏清十郎物語」

お夏清十郎物語・あらすじ

お夏・清十郎は、1662年(寛文2年)に姫路城下で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品のことです。
お夏さんの実家周辺
姫路市西二階町
1625年(寛永2年)、姫路の米問屋(旅籠屋ともいわれている)「但馬屋(中門筋と西国街道の交差点の南)」に奉公していた室津の造り酒屋の息子・清十郎が、米問屋の主人に刀を振り重傷を負わせる事件が起きました。身分の違う者同士が結ばれない時代に米問屋の娘・お夏と恋仲になったことが原因でした。清十郎は、お夏の「かどわかし(誘拐の意味)」に加え、店の金持ち逃げの罪を着せられ、この騒動を知った当時の姫路城主・榊原忠次は、同じような事件が二度と起きないようにと清十郎を打ち首の刑に処しました。その処分をきっかけに清十郎を忘れきれないお夏は「清十郎さま殺さば、お夏も殺せ」と半狂乱で叫び、髪を振り乱して裸足で城下を歩き回る。という悲しい物語で、この悲劇は、事件後各地でさまざまな小唄に歌われ、全国に知れ渡り、井原西鶴の小説「好色五人女」の「姿姫路清十郎物語」や近松門左衛門の戯曲「五十年忌歌念仏」の「お夏と清十郎」の物語となりました。
清十郎生家碑
たつの市御津町室津

京でも話題になるほどの美人

そのお夏さんの実家・米問屋・但馬屋(実際は旅籠・但馬屋)は、姫路城・中之門跡(国道2号線と中之門筋の交差点)から約50m南のところにあったと伝えられています。当時、お夏さんは、京(京都)でもお目にかかれないほどの美人と話題になったそうです。

慶雲寺のお夏清十郎比翼塚

姫路市野里の慶雲寺には、この世で結ばれなかった二人があの世で結ばれるようにと二つの小さなお墓が建てられています。毎年89日・10日には二人を供養する「お夏・清十郎供養まつり」が行われています。
慶雲寺のお夏清十郎比翼塚
慶雲寺
姫路市野里慶雲寺前町10-1


2017年5月29日月曜日

播磨政所跡とその周辺を訪ねて

国府と餝磨の市

大化の改新で国府が置かれたのが城東町周辺といわれています。国府には市(いち)が設けられ、枕草子に記載されている「磨(しかま)の市」は有名で、城東町から市之郷周辺にあったといわれています。最も栄えたのは鎌倉初期で「飾磨の褐(かち)染め」が有名だったそうです。ちなみに、この「市」にちなんだ地名が、市之郷や市川だといわれています。池田輝政の町割りにより外濠以西は城下で、神屋は旅籠町となり、下級武士の屋敷が多くあったそうです。
播磨政所跡

大化の改新によって、播磨の国府が飾磨郡に置かれました。その所在は真宗寺や白山神社の周辺だと昔からいわれています。このあたりは志深(しじみ)、国府寺村と称したので、志深政所(まんどころ)・国府寺政所と呼ばれていたそうです。後白河法皇の増位山御幸のとき、宿泊された館もこのあたりにあったと伝えられています。真宗寺の前に少しばかりの空濠と播磨政所の標石が立っています。
播磨政所の空濠跡
姫路市城東町97-8真宗寺

白山神社

白山姫命を祭神とし、歯の神様として尊崇されています。社殿は、1933年(昭和8年)に再建されました。
姫路市城東町9701

九所御霊天神社

神九所御霊天神社(くしょごりょうてん)は、屋の天神と親しまれています。当初は五座の神霊を祀ったが、近世になって小名彦名命(すくなびこなのみこと)を主神とし、大物主神(おおものぬしのかみ)、菅原道真ら九所(九神)の御霊を祀っています。玉垣には、江戸時代の姫路木綿の商人や大年寄の山本佐七郎、内海荘右衛門らの名や明治の銀行、企業など当時の有力者の名があります。
姫路市大善町7

宝蔵院

真言宗醍醐寺派で、快順(かいじゅん)が開基。毎年7月に「祇園さん」という夏祭りが行われています。
姫路市神和町85

外京口門跡

外濠・外京口門は、濠の側面に引き込んだ特異な桝形。幅広い土橋は、1625年(寛永2年)の洪水で流失し、その後、木造で作られました。外京口門は、京都方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。

竹の門跡

外濠・竹の門の造りは、枡形や喰い違いのない簡単な造りでした。建物も単門で、由来は鬼門にあたるため「他家=竹」の門と命名されたそうです。この付近には、濠の跡が残っていますが、遺構は残っていません。

妙立寺

妙立寺(みょうりょう)は、顕本法華宗妙満寺派、遠州吉美郷で日円上人が開基。1604年(慶長9年)池田輝政の町割りのとき招かれ移転。山門は戦災を免れました。1885年~1887年(明治18年~20年)まで東区務所が置かれていました。
姫路市五軒邸2丁目-85

法華寺

日蓮宗本圀寺派、播磨三木で日登が開基。1602年(慶長7年)池田輝政の町割りのとき招かれ移転。千姫の位牌堂を城内から移築して祀っていましたが、戦災で焼失しました。
姫路市五軒邸1丁目-58

下記の地図で所在地をご確認ください。



2017年5月24日水曜日

姫路城下への西の入口「下手野」を訪ねて

瓦山(現:船越山)

瓦山(現:船越山)
ここ下手野の北東に船越山があります。この山が、青山合戦で黒田官兵衛が陣取った「青山」のことで、当時は「瓦山」と呼ばれていました。ここには、船越神社があります。

川会所

江戸時代、ここ下手野は姫路城下の西の入口にあたり、東西は西国街道が走り、北は作州街道と因幡街道、夢前川には渡し船の渡し場があり「川会所(川越しに関する事務を扱った役所のこと)」も設けられていました。このように下手野は交通の要として栄えた所でした。
右 誕生寺道
左 たつの

宿場町

ここには旅籠屋が建ち並び川留めの際には、西国の大名や幕府のお役人なども宿泊した、かなりの規模の宿場町でした。
<根拠>
ここに姫路藩の「一里番所(江戸時代、幕府や諸藩が交通の要所などに設置した監視所のこと)」が置かれていました。残念ながら、遺構は残っていません。
夢前川の東、西国街道の入口に「常夜灯」があり、「金毘羅大権現 常夜灯 文政十丁亥年 八月吉日 願主当村桔梗(ききょう)屋 世話人」と刻まれ、ここで旅籠を営んでいた桔梗屋が建立していることからも、ここが宿場町だったことが確認できます。

夜灯
当時、桔梗屋の他に、大屋、井筒屋、まるや、大黒屋、油屋、花屋、からすき屋、材木屋などの旅籠屋があったそうです。残念ながら、遺構は残っていません。

下記の地図で所在地をご確認ください。



2017年5月22日月曜日

子ども公園に生まれ変わった「桜山公園」を訪ねて

生まれ変わった桜山公園

また、桜山貯水池だった桜山周辺は、1987年(昭和62年)の「姫路市自然観察の森」の開園を機に、子供をテーマにした「桜山公園」へと生まれ変わりました。

桜山貯水池

貯水池下にある旧飾磨郡余部村青山より旧揖保郡太市村に抜ける峠道の街路樹として多くの桜の木が植えられていたことから「桜峠」と呼ばれていたことに由来しています。当初は、揖保川から揚水し非常時に備える保安用として1940年(昭和15年)に着工されたが、戦時中のため、1945年(昭和20年)工事中止。1960年(昭和35年)、工業用水の需要増のため、堰堤(えんてい)の嵩(かさ)上げ工事を行い、有効貯水量446万の貯水池が完成。

桜山公園

1987年(昭和62年)、兵庫県と姫路市が貯水池周辺を「桜山公園」として再整備がスタート。8kmのハイキングコースを備えた「姫路市自然観察の森」は、四季を通じて植物・昆虫・野鳥などの観察には適しており、北岸一帯は自然観察路や野鳥観察小屋が設けられ、ネイチャーセンターのレンジャー(自然観察指導員)から動植物や自然環境などについて話を聞くこともできます。自然観察の森の東には、兵庫県立こどもの館(安藤忠雄氏設計)・姫路市立星の子館・姫路科学館(別名アトムの館)などの施設があります。特に、姫路科学館のプラネタリウムは国内最大級の直径27mのドームスクリーン、星の子館は国内最大級の90㎝反射望遠鏡と宿泊可能な児童向け天文観測施設が設けられています。
東から順に
(1992年開館)

(1993年開館)

(1989年開館)

(1987年開園)

桜山公園
2006年(平成18年)堰堤(えんてい)の麓には約8.7ヘクタールのスポーツ広場と遊具を備えた「桜山公園」も完成しました。

下記の地図で所在地をご確認ください。



2017年5月21日日曜日

稲岡山を中心に栄えた「青山」を訪ねて

夢前川

姫路藩主・榊原忠次が、1655年(明暦元年)御立の横関に堰を築き、それまで御立から今宿に流れていた主流を直接青山に導き、現在の姿になったそうです。

西国街道の道標

西国街道(旧山陽道)の道標は、国道2号線・夢前橋西交差点から北へ100mのところにあり、右(北)は因州・伯州・作州・雲州方面、左(西)は備前・九州方面、東は姫路・大坂・京・江戸と、主要地までの距離も表示されています。ここを西へ、青山の中央を東西に西国街道が通り、今でも古い建物が所々に残っています。江戸時代、青山村には「継飛脚番所」があり、大坂・長崎御状箱を継送(つぎおくり)していました。この道標は、1977年(昭和52年)姫路市指定文化財に登録されました。

教專寺

教專寺(きょうせんじ)の松は、本堂建立記念として植えられ「葉わけの松」と名付けられましたが、山陽道を往来する人達が変な松に気づいて振り返ることから「みかえりの松」と呼ばれていたそうです。現在の松は二代目だそうです。
姫路市青山1丁目2-1

旧青山村庄屋屋敷

青山村庄屋・菅原家は菅家の流れをくむと伝えられています。江戸時代、庄屋として継飛脚番所も差配していたそうです。幕末には、屋敷内に寺子屋「廣観黌(まなびや)」を開設しました。
姫路市青山2丁目

稲岡神社

稲岡山の南麓、祭神は豊受姫大神と稲丘太神でどちらも稲の霊に関係した神様です。稲岡神社は絵馬が有名で江戸時代のものが多く、中でも「おかげ参り図」の絵馬は、1985年(昭和60年)兵庫県の指定文化財に登録されました。
姫路市青山2丁目9-6

素麺業肇基記念碑

素麺業肇基(はつき)記念碑は、稲岡神社の境内にあり、昭和初期まで盛んだった素麺業の昔を偲ぶために建立されたそうです。1841年(天保12年)青山に生まれた永澤治三郎は、明治20年代後半、農業の副業として素麺製造に取り組み「素麺組合」を設立し、初代組合長となりました。当時、青山北部に水車を動力とした製粉業や素麺を箱詰めする箱製造業が栄えたそうです。
姫路市青山2丁目9-6
稲岡神社内

人丸神社

柿本人麻呂(万葉集の代表的な歌人で人丸(ひとまる)ともいう。)を祀っている神社で、本殿は方形造りの宝殊(ほうじゅ)を載せた珍しい屋根が特徴です。
姫路市青山6丁目8

浅陰沼跡

浅陰沼(あさかけぬま)は、稲岡山西の麓・青山公園内にありました。柿本人麻呂がこの地に住みついたとき、遠く「岩見の国(現在の島根県浜田市周辺)」にいる妻の夢をよく見られたといわれ、当時、この辺りを「妻見ケ丘」と呼ばれていたそうです。
<柿本人麻呂の詩歌>
「青山や あさかけ沼の みかくれに あはんとすれど 逢うよしもなし」

和泉式部の腰掛石

和泉式部が大きな岩に腰掛けて歌を詠ったといわれています。東麓に青山八景の一つを歌った歌碑があり、その岩が「和泉式部の腰掛石」と伝えられています。

晋賢堂山・法燈寺跡

法光上人が開基した「晋賢堂山(ふげん)・法燈寺」の跡と伝えられています。当時は、参拝者で大変賑わっていたそうです。

宗全寺跡

宗全寺(そうぜん)は、播磨国守護・山名宗全の一族や家臣の菩提を弔うために建立した寺だそうです。今も残る「青山字塔の内」は、宗全寺の五重塔が建っていたそうです。

製紙組合の碑

紙の製法は、1884年(明治17年)青山村の山口重太郎氏が大阪から伝えたそうです。明治中期~大正にかけ青山・高岡で和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった「米田勝松氏」をたたえ建立されました。

青山古戦場跡

黒田官兵衛の初戦の地・青山古戦場跡です。青山合戦で官兵衛が陣取った「青山」とは、現在の下手野の「船越山」のことで、当時は「瓦山」と呼ばれていました。

下記の地図で所在地をご確認ください。