幡念寺
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三河国吉田(現豊橋市)から輝政の町割りで現在地に移転した浄土宗のお寺。境内の延命地蔵は、昔飢餓の時、山中より出て人々に餅を与えたので餅売り地蔵と尊敬され、昭和初期まで8月下旬の「地蔵祭り」は賑やかだったそうです。
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光明寺
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江戸初期、飾磨津から現在地に移転した浄土宗のお寺。明治18年姫路町と飾東郡の西区務所が本寺に置かれた。
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長源寺
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男山山麓にあった長彦寺で、輝政の町割りで現在地に移転した。昔、6月長壁神社の神事には、無燈籠に走り馬の絵を描いた「長源寺の無燈籠」が売られていました。
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光原寺
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浄土真宗本願寺派で、播磨六坊の一つで、飾磨区細江から下白銀町に移転。戦災で現在地に移転、当時は鉄筋のモダン寺として話題を呼んだ。
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寺町について
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寺町は、戦いになると武士たちが寺に立てこもり、一カ所から侵入してくる敵を待ち伏せし有利に戦うため、城下や周辺から寺院を強制的に集め戦力的に建てたそうです。ここ寺町は、現在の五軒邸から南へ坂田町、平野町の3町まで、中濠の京口門跡から東へ約100mです。北から順に、正明寺(五軒邸)、妙立寺(五軒邸)、妙善寺(五軒邸)、圓光寺(五軒邸)、本領寺(五軒邸)、法華寺(五軒邸)、妙國寺(五軒邸)、大法寺(五軒邸)、妙行寺(坂田町)、圓證寺(坂田町)、善導寺(坂田町)、正法寺(平野町)、妙圓寺(平野町)の13ケ寺が建ち並んでいます。
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妙立寺(寺町)
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妙立寺(みょうりょう)は、顕本法華宗妙満寺派。1604年(慶長9年)池田輝政の町割りで遠州吉美郷から移転。
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法華寺(寺町)
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法華寺は、日蓮宗本圀寺派。1602年(慶長7年)池田輝政の町割りで三木から移転。千姫の位牌堂を城内から移築しましたが、戦災で焼失。
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善導寺(寺町)
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1602年(慶長7年)池田輝政の町割りで梛本(なぎもと:東高校付近)から坂田町に移転。浄土宗のお寺で、境内の笠塔婆は、市内で2番目に古いものだそうです。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年9月14日金曜日
姫路城下・お寺散歩
2018年9月9日日曜日
姫路城下・大正~昭和にタイムスリップ
姫路仲買市場開設の地
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大正初期、中壕沿いの坂元町一帯に青果7件、海産物4件の仲買市場が開かれていました。ピーク時は、福中町まで業者が増え、大正末期には80軒を超え、姫路海産物青果組合が結成されました。昭和初期になると坂元町も狭くなり、久保町・京口などの新設市場街へと分散しました。現在でも、市場跡が残っています。
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中壕は国道、外濠は鉄道に
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外濠だったJR姫路駅
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中濠だった国道2号線
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外濠は鉄道の開通、中壕は1932年(昭和7年)国道2号線に。それまで、残っていた濠ですが、時代の要請から次々と埋め立てられました。国道2号線には「中濠埋立之碑」が建てられています。
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中濠埋立之碑
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大手前通り完成
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姫路城下の大手筋は、明治中期まで現在の大手前通り(当時の名称:国府寺小路)の一筋西側の「中之門筋」で、1903年(明治36年)以降は現在の大手前通りの一筋東側の「御幸通り」がその役割を果たしていました。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、姫路大空襲で焼け野原となり姫路市の中心部は甚大な被害を受けました。その戦災復興のため戦災復興土地区画整理事業の目玉事業として、姫路城と国鉄姫路駅(現JR)を結ぶ道路(国府寺小路)の拡幅が姫路市により計画され、1949年(昭和24年)9月に着工、1955年(昭和30年)2月20日に完成し、盛大な式典が行われました。この道路は、建設当時「50m道路」と言われていましたが、一般公募により「大手前通り」と命名されました。当時は、大阪市の御堂筋がそう言われたように「飛行場でも作るのか」と揶揄(やゆ)されました。1984年(昭和59年)2月から1988年(昭和63年)にかけて「大手前通り・シンボルロード整備事業」が実施され、歩道はクスノキ(県木)が植えられ現在の姿となりました。この大手前通りは、姫路市の代表的な祭り、「お城まつりパレード(5月初旬)」、長壁神社の「ゆかたまつり(6月)」が行われ、姫路市民からも親しまれ愛されている道路です。
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JR新幹線開通
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1972年(昭和47年)3月15日、山陽新幹線新大阪~岡山間が開業。
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JR山陽・播但・姫新線高架
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JR山陽本線等姫路駅付近連続立体交差事業は、JR山陽本線約4.3km、JR姫新線約1.3km、JR播但線約1kmの高架化と貨物基地と車両基地の移設を行う、総事業費約632億円、事業期間1989年(平成元年)から2010年(平成22年)までの大規模な事業です。2006年(平成18年)3月、JR山陽本線高架切り替え完了。JR姫新線・播但線2008年(平成20年)12月22日、高架切り替え完了。これで、JR姫路駅周辺の鉄道の高架化がすべて完成しました。
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大きく変わった姫路駅前
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下記の地図でご確認ください。
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2018年6月10日日曜日
姫路城の外濠と外濠川を散歩
姫路城の外濠と外濠川
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江戸時代の絵図によると、外濠は両面に石垣を積む箱濠で幅約14m、石垣の高さ約3.5m、濠の内側には土塁があったそうですが、明治時代に外濠の東部を除いて大半が埋められ、土塁も取り壊されました。東部の外濠は、1873年(明治6年)から始まった生野鉱山寮馬車道建設で埋められ、濠幅は半減しました。姫路市は、1994年(平成6年)度から「外堀川環境整備事業」を行い、姫路城の外濠を普通河川として整備。2010年(平成22年)、外濠公園内で実施した発掘調査で、姫路城の外濠の遺構が史料通り残っていることが確認されました。この外濠川の散策は、堀留町から三左衛門堀まで、約5㎞のコスです。
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野里堀留町
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姫路城外濠跡碑
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姫山北東から発した姫路城の濠は、左回りの螺旋状に内濠(2,970m)・中濠(4,323m)・外濠(5,232m)と3つの濠が続き、濠の総延長は12,525mあります。この濠の最終地点がここ「野里堀留町」です。
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竹之門跡
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竹之門絵図
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竹之門の造りは、枡形や喰い違いのない簡単な造りでした。建物も単門で、由来は鬼門にあたるため「他家=竹」の門と命名されたそうです。この付近には、濠の跡が残っていますが、遺構は残っていません。(竹之門交差点)
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外京口門跡
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外京口門絵図
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濠の側面に引き込んだ特異な桝形。幅広い土橋は、1625年(寛永2年)の洪水で流失し、その後、木造で作られました。外京口門は、京都方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。(東光中学校・体育館)
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河合橋
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河合惣兵衛邸跡
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下寺橋
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外濠公園
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河合惣兵衛の碑石
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北條門跡
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北條門絵図
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北條門の土橋は長く喰違いに造られています。これは、敵に横矢を放つためのものです。城門は、二重の隅櫓が建てられています。北条方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。(巽橋交差点南)
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三左衛門堀
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三左衛門堀は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの戦功により、播磨52万1千石の領主となり、濠を建設した「池田三左衛門輝政」の名に因んで名付けられました。輝政は、姫路城の築城と姫路から飾磨津(姫路港)までの間に海防と水運を兼ね、姫路城下の経済的発展を目的に、市川の旧水路を利用し開削を進めたが、工期半ばに輝政は亡くなり、濠工事は中止されました。残った約2kmの濠を1974年(昭和49年)、二級河川・外濠川として全面改修されました。
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運河公園
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約5kmの外濠川の散策は、歩くことに自信のある方は別として、姫路駅周辺のレンタサイクルを利用されることをお勧めします。散策中は、くれぐれも、交通ルールを守り、車には気をつけて下さい。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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2018年3月4日日曜日
亀山御坊と手柄山周辺の文化財を訪ねて
冑山神社
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冑山神社(かぶとやま)は、1701年(元禄14年)姫路城主・本多政武が姫路城の裏鬼門を守るため創建し、総社の社家が祭祀していましたが、空襲により全焼。現在の社殿は、1966年(昭和41年)再建されました。
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法専坊
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法専坊(ほうせんぼう)は、真宗大谷派、播磨六坊の一つです。1873年(明治6年)法専坊を飾術学校(手柄小学校の前身)の教場とし、初代校長には住職の下間空澄(くうちょう)がなりました。
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<播磨六坊とは>
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蓮如上人が播磨に浄土真宗を広めるため6人の高弟(浄覚、順念、空善、祐全、善祐、誓元)が英賀(あが:姫路市飾磨区)に派遣され、それぞれ一寺を建立したのが「播磨六坊」です。
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夜啼地蔵
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夜啼地蔵(よなきじぞう)は、敵討ちの武士に両親を奪われた乳飲み子が、母の尊崇(そんすう)していた地蔵に夜な夜な乳を飲ませられ泣いていたことから夜啼地蔵といわれたそうです。
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生矢神社
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生矢神社(いくや)は、飯田・亀山・手柄・栗山の四町の氏神。地名三和から「三和社」ともいわれています。生矢神社は、平清盛が厳島への道中に立ち寄り「生屋大明神」の神号を奉ったといわれています。
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三和寺
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三和寺(さんなじ)は、臨済宗妙心寺派。開山は盤珪和尚。飾術学校火災焼失を受け、1878年(明治11年)から「勲山小学校(後の手柄小学校)」の教場となります。現在の本堂は、1922年(大正11年)再建されました。
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亀山御坊
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浄土真宗本願寺派で、地元では「御坊さん」の名で親しまれています。当時は、別格別院・中本寺と呼ばれていました。開基(かいき:寺院を始めて建てること)は蓮如上人(れんにょ)が行い、初代住持(じゅうじ:住職)には、孫の実玄(じつげん)が努めました。1492年(明応元年)、本願寺第8代蓮如上人の弟子・空善(くうぜん)はじめ5人の御弟子が、播磨国・英賀の浦(現在の姫路市英賀保)に道場を建立、布教伝道にあたり、翌年本徳寺の寺号を公称し、西の拠点として発展しました。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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