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加西市・加東市の浅野赤穂藩領
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常陸国笠間藩主の浅野長直に、1645年(正保2年)赤穂への転封が命じられ、浅野赤穂藩が誕生。江戸城刃傷事件があった1701年(元禄14年)まで浅野家の支配がつづいた。その赤穂藩は、所領は約5万3,500石でしたが、赤穂郡一円は117ケ村で3万5,200石、飛地として、佐用郡に5ケ村1,200石、加東郡に24ケ村8,200石、加西郡に33ケ村8,900石の所領があり、加東郡穂積に代官役所を置き管理していた。
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河上山久学寺(きゅうがくじ)
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東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺とともに赤穂義士ゆかりの三がく寺の1つで、大石内蔵助が、灌漑工事の進捗状況の確認にこの地を訪れた際、久学寺に宿泊していました。江戸城で刃傷事件が起こった際も、内蔵助は久学寺で碁をうっており、赤穂の使者から刃傷事件を聞き、慌てて赤穂に帰ったとの言い伝えが残っている。また、討ち入り後、9世住職・海音和尚が浅野内匠頭長矩公と四十六士の戒名を贈ったとされ、毎年12月14日に「義士祭」が営まれている。
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奥野将監屋敷跡
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赤穂藩士の一人で奥野将監(おくのしょうげん)が隠れ住んだという屋敷跡(礒崎神社脇)。将監は赤穂城明け渡し後、大石内蔵助に次ぐ重臣として大石を支え、藩内を取りまとめた。しかし、浅野家再興が不可能になると、1702年(元禄15年)脱盟し、討ち入りには不参加。その後、娘が礒崎神社の宮寺快智院に嫁いでいるのを頼り、神社の横、山裾に居を構え、身を隠すように暮らした。
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伝浅野家献納絵馬
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樹齢1,300年の2本の門杉がある石部神社は、赤穂領地内にあり、浅野家の崇敬した神社で、拝殿正面に掲げてある巨大な黒馬の絵馬は、浅野家より献納されたものと伝わっている。また、この神社の裏山山頂には、皇塚古墳があり、伝承では、日本最古の地誌である「播磨国風土記」が編纂された同時期に、元正天皇皇女が葬送された墓と伝わっている。
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大石蔵之助腰掛石
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大工町の旧道に高さ50㎝の自然石がり、地元では「大石内蔵助の腰かけ石」と呼ばれている。内蔵助が当地を訪れた際、宿泊した久学寺と穂積代官役所とのほぼ中間地にあたる。
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八王子神社
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八王子神社は、古くから五穀豊穣、安産守護の神様として祀られ、現在の社殿は、1693年(元禄6年)赤穂藩の郡奉行で赤穂義士・吉田忠左衛門の尽力により再建されたといわれている。加東郡穂積の代官役所のトップ(郡代)が吉田忠左衛門で、吉良邸討ち入りの際は老練な副将として討ち入りを成功に導いた。また、吉田忠左衛門名で村々に発行した免目録(納めるべき年貢米の量、納期などを命じた文書)が残っている。
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仮名手本忠臣蔵絵馬
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神功神社の拝殿に仮名手本忠臣蔵十二段絵馬(1911年(明治44年)地元の氏子により奉納)が掲げてある。
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小野寺十内、幸右衛門親子の碑
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地蔵堂境内(東長町)に、討ち入りに参加した四十六士の内、小野寺十内と幸右衛門親子の碑(江戸・中期、古田伴庵氏が建立)が立っている。
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祝融山多聞寺
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赤穂藩・京都留守居役を務め、吉良邸討ち入りに参加した小野寺十内と小野寺幸右衛門親子の子孫が祝融山多聞寺(しゅくゆうさん・たもんじ)の檀家であることから、毎年12月14日に義士祭が行われている。また、槍の名手として有名な大阪五人衆のひとり「後藤又兵衛」の菩提寺でもある。
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小野寺十内の子孫棟札
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小野寺十内と小野寺幸右衛門親子の碑と小野寺十内の子孫が再建したが薬師堂に棟札(むなふだ)が残っている。
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潮田又之丞の母姉の墓
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潮田又之丞(うしおだまたのじょう)は、四十七士の一人で、大石内蔵助の側近。また、文武両道で医学や薬学に詳しく、さらに、吉良上野介の屋敷跡の絵図を製図するなど、絵の才能もあった才人。討ち入り決意後は、姉の嫁ぎ先の北条町の渡辺家に家族を預け、討ち入りには不参加。
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赤穂四十七士の墓所
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浅野家の祈願所であったことから、1847年四十七士の供養墓碑が建立され、義士の寺として親しまれた。毎年12月14日「義士祭」が行われる。
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穂積陣屋
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穂積陣屋は、寛永年間姫路城主・本多氏によって所領支配のための代官所として築かれ、年(元禄4年)播州赤穂の浅野長矩の所領となり、加東・加西郡の所領支配の代官所として使用された。年(元禄14年)浅野長矩が殿中松の廊下で吉良義央に刃傷事件により改易となり、加東・加西郡の赤穂藩領の内、4,000石は旗本・八木高補の所領となり、明治までこの地を領した。陣屋門は、了徳寺山門として移築された。(加東市指定文化財)
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2020年9月13日日曜日
赤穂義士・北播磨ゆかりの地
2020年9月12日土曜日
赤穂義士ゆかりの地-相生市
若狭野浅野家陣屋
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赤穂・浅野家の分家、若狭野・浅野家の陣屋跡です。約500坪の敷地には、藩札を作っていた札座跡や本宅・内庭・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。近年その配置図も発見されています。本家は浅野内匠頭の刃傷事件で取つぶされましたが、それより前1671年(寛文11年)、若狭野12ケ村三千石の直参旗本(じきさんはたもと:江戸幕府に直属した一万石以下の武士のこと)として明治まで続きました。ちなみに、当陣屋の表門は相生市内の西法寺に移築されたそうです。
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浅野家菩提所・観音寺
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若狭野浅野家の菩提所で、大石の銅像と赤穂義士絵巻がある。
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大石良雄別邸跡
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大石良雄が、備中松山城の開城にあたり、浅野内匠頭が城受取りを命じられたが、病気のため家老・大石良雄にその名代を命じた。大石は流血を避け、平穏に城を明け渡すことに成功。その功績として相生村を私領として賜り、相生の名家・海老名家に来遊し、ここの庭を好んだことから大石さんの別邸と呼ばれていた。1876年(明治9年)消失するが、庭の一部が残っている。
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神崎与五郎孝子の井戸
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赤穂義士・四十七士の一人、神崎与五郎が一緒に暮らしていた母の目の病を治すため、毎日無心で祈願していると「井戸水で目を洗うよう」お告げがありました。与五郎は、早速、母の目をその井戸水で洗ったといわれています。
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2020年9月11日金曜日
赤穂義士ゆかりの地-赤穂市
大石内蔵助像
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息継ぎ井戸
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江戸での浅野内匠頭による刃傷事件の第一報を知らせるため、1701年(元禄14年)3月14日の夕刻に赤穂藩士、早水藤左衛門・萱野三平が早かごで江戸を出発。赤穂城下に着いたのは3月19日の早朝でした。155里(約620km)の行程を4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りこの井戸の水を飲んで一息ついたといわれています。以来、この井戸は、「息継ぎ井戸」と呼ばれています。
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義士あんどん
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赤穂市制60周年を記念して造られた、からくり時計「義士あんどん(高さ4m)」が息継ぎ井戸の隣にあります。午前9時~午後8時の毎正時になると、からくり人形が忠臣蔵名場面「松の廊下」「はやかご」「勝どき」など4場面を再現しています。(ナレーション付き、約3分)この時計台には、赤穂市立歴史博物館所蔵の浮世絵が複写されています。
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浅野家と義士の寺・花岳寺
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花岳寺
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大石なごりの松
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禅の曹洞宗、本山は永平寺。赤穂藩祖浅野長直公によって1645年(正保2年)に建立された寺です。事変後は、永井家・森家歴代藩主の菩提寺となりました。境内には、四十七義士の墓・宝物館・義士木像堂などがあり、赤穂義士ゆかりの史跡として有名です。赤穂城の塩屋惣門を移築した山門は赤穂市指定文化財に指定されています。
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ならずの鐘
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赤穂義士宅跡
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赤穂義士四十七人のうち、赤穂市に屋敷があったのは21人です。現存していませんが、21人の義士宅にはそれぞれ説明板と石碑が立っています。
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大石神社
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大正元年、大石内蔵助良雄はじめ四十七義士と萱野三平などと号祀して創建されました。境内には国指定史跡の大石良雄宅跡があり、長屋門や庭園が残されています。また、義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿や浅野公・四十七義士の木像が展示されている義士木像奉安殿もあります。
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大石邸長屋門
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この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋です。内蔵助の偉業を偲ぶ唯一つの建物です。内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、1701年(元禄14年)3月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門です。1856年(安政3年)大修理され、昭和52年11月から翌年10月まで全面解体修理が行われました。1923年(大正12年)国の史跡に指定されました。
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赤穂城跡
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浅野長直の指示によって1648年(慶安元年)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。赤穂城は軍学に従って築かれた城で、徳川幕府が始まって約50年経ったにも関わらず、その構造は戦を強く意識したものです。複雑に折れ曲がる石垣や角度を換えた諸門に特長があり、城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある舟入は船が出入りできるようになっていました。1971年(昭和46年)国の史跡に指定、2002年(平成14年)本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定されました。
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本丸庭園
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近藤源八郎邸長屋門
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近藤源八郎は、甲州流軍学を修め、千石番頭(ばんがしら)の重職にあり、大石内蔵助の叔母にあたり、親戚関係にありました。源八の父・三郎左衛門正純(まさずみ)が赤穂城築城の縄張り設計を行っています。この門は、「源八長屋」の愛称で市民から親しまれ、大石邸長屋門の斜め向かいにあります。赤穂市指定有形文化財に指定されています。
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大石良雄仮寓地跡
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大石良雄仮寓地(かぐうち)跡は、1701年(元禄14年)の刃傷事件の後、城明け渡しの残務整理をする5月7日~6月25日の間、大石内蔵助と家族が仮住まいしたところだそうです。
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