三木城跡
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1578年(天正6年)5代目城主・別所長治は、織田信長の家臣・羽柴秀吉の軍に包囲され、1年8ヶ月に及ぶ兵糧(ひょうろう)攻めに遭い、1580年(天正8年)城主一族は、領民の命を救うために自刃(じじん)して三木城を開城しました。その後は、秀吉をはじめ家臣の杉原氏、中川氏などが城主となりました。1616年(元和2年)小笠原忠真(ただざね)を領主とする明石藩に編入され、1617年幕府による一国一城令により廃城となりました。その際、三木城の資材の多くは、明石城の建築部材に使われたといわれています。当時の城は、本丸(上の丸公園)、二の丸(図書館・美術館周辺)、新城、鷹ノ尾城(たかのおじょう:三木市役所周辺)、雲龍寺周辺までの一角であったといわれ、東播磨随一の規模だったそうです。本丸跡には、「今はただうらみもあらじ、諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世(じせい)の句の歌碑が建てられています。
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高木大塚城跡
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三木城を兵糧攻め(三木の干殺し)にするため、官兵衛は約30の付城を築き、三木城への兵糧搬入や援軍を遮断しました。また、絵図「三木城地図」にも描かれています。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年8月25日土曜日
三木市の城跡を訪ねて
西脇市の城跡を訪ねて
黒田城跡
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黒田家発祥の地といわれています。黒田城の築城時期の詳細は不明ですが、黒田重勝が居城していたとされています。この黒田氏の後の一族が黒田官兵衛だという説があります。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年8月24日金曜日
小野市の城跡を訪ねて
小野藩陣屋跡
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1636年(寛永13年)、伊勢国・神戸(かんべ)藩5万石の大名だった一柳直盛(ひとつやなぎ・なおもり)は、今までの功績が認められ、伊予国58,600石に播州加東郡1万石が増やされましたが、直盛は病で亡くなり所領は3分割され、それぞれを息子が引き継ぎました。小野藩陣屋跡は小野小学校から小野高校あたりにありました。小学校門横には陣屋の縄張り図陣屋跡があります。
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金鑵(かなつるべ)城
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金鑵城(かなつるべ)は、室町時代に播磨守護職・赤松氏の家臣・中村氏が築いた山城です、城内に深い井戸があり、その水を「かなのつるべ」で汲み上げていたことから「金鑵城」と名付けられたそうです。この城は、遠望がきいて周囲を広く見渡せる絶好の場所が選ばれています。1999年(平成11年)夢の森公園としてオープンしました。
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河合城跡
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河合城は掘殿(ほりとの)城とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職・赤松氏の東播磨の拠点として築城された平城で、東西約400m、南北約300mの東播磨屈指の大城郭で、主郭部の「源氏屋敷」と東の郭と西の郭がありました。1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱では、赤松満祐が将軍・足利義教の首をもってこの城に入城したといわれています。
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下記の地図でご確認ください。
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上郡町の城跡を訪ねて
白旗城跡
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白旗城址(しらはたじょう)は、白旗山山頂(標高440m:近畿自然歩道を登り約1時間)に広がる全長470㎡の山城跡です。南北朝時代、赤松氏卒いる北朝軍は、新田義貞卒いる南朝軍の激しい攻撃をしのいだことから難攻不落の名城と伝えられています。国指定史跡に指定。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年8月23日木曜日
佐用町の城跡を訪ねて
利神城跡
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利神城跡(りかんじょう)は、1349年(貞和5年)赤松一族の別所敦範(あつのり)が利神山に山城を築き、赤松一族の拠点として栄えたところです。1600年(慶長5年)関が原の戦のあと、姫路城主(52万石)池田輝政公の甥・池田出羽守由之(でわのかみよしゆき)が、平福領主(23,300石)となり、山麓の城主屋敷や街道沿いには町人地など、5年の歳月をかけ城下町を築きました。利神山の三層の楼閣(ろうかく)は、「雲突城(うんとつじょう)」と呼ばれました。山頂(標高373m)に登れば、本丸・二の丸・大坂丸などの石垣が当時の姿を残していますが、現在、登山道が荒廃しているため登ることはできません。
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三日月藩乃井野陣屋跡
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三日月藩・乃井野(のいの)陣屋館は、1697年(元禄10年)、津山藩森家の改易(かいえき:江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく:給与)や屋敷を没収すること。)で、分家の森長俊が三日月の地に移住し、佐用郡・宍粟市・揖保郡の一部を治め、1万5千石の藩主となりました。陣屋(小規模城主の居城)跡は、発掘調査を行い、堀や石垣など当時の様子が再現されています。また、城下には当時の面影を残す町割りや武家屋敷も残っています。
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佐用城跡
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戦国時代末期、東西勢力拮抗の狭間で西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松家の城郭群を形成していたが、1577年(天正5年)11月、羽柴秀吉が黒田孝高(官兵衛)、竹中重治(半兵衛)に攻撃させ落城しました。
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下記の地図でご確認ください。
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たつの市の城跡を訪ねて
龍野城跡
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たつの市の中心部は、脇坂藩五万三千石の城下町で市街地には武家屋敷・白壁の土蔵が今も残り、この地域は「播磨の小京都」といわれています。龍野城は約500年前、赤松村秀によって鶏籠(けいろう)山頂に城築かれ、4代目の1577年(天正5年)羽柴秀吉に城を明け渡します。その後、山麓に築城し、1672年(寛文12年)信州飯田から脇坂安政(やすまさ)が入府し、以後、脇坂藩は明治まで続きました。歴代城主では、赤穂城請取りの脇坂康照(やすてる)寺社奉行の時、延明院事件を裁いて老中になった十代安重(やすただ)は、外様大名でただ一人老中になりました。また、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」当時の老中・安宅(やすおり)が有名です。
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室山城跡
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室山城は浦上政宗の居城です。政宗は、小寺氏との同盟を結ぶため、1564年(永禄7年)に小寺氏の家老・黒田職隆の娘(黒田官兵衛の妹)と、政宗の次男・浦上清宗の婚礼当日、赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに討ち死、城は炎上し廃城となりました。現在城址に遺構は残っていません。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年8月22日水曜日
宍粟市の城跡を訪ねて
波賀城跡
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波賀(はが)城は、1263年伯可荘の有力者・芳賀七郎が築城。13世紀中頃から戦国末期までは、播磨国・中村氏が城主を務めました。1990年(平成2年)宍粟郡波賀町が波賀城跡の発掘調査をし、史跡公園として整備。城郭(標高458m)までの車道(遊歩道兼ねる)を上ると、復元された冠木門(かぶきもん)と二層櫓があります。二層櫓は、歴史資料館・波賀城学習資料館として公開されています。毎夜ライトアップもされています。
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長水城跡
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長水城は、室町時代の1336年(建武3年)に赤松則村(円心)の三男・則祐(のりすけ)によって築かれました。1580年(天正8年)羽柴秀吉により落城。
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鹿澤城跡
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1615年(元和元年)池田輝澄が築城した「山崎城」(別名:鹿沢城)の面影を残す山崎藩陣屋門(紙屋門)です。近くには、旧山崎町の貴重な歴史資料を集めた「山崎歴史郷土館」や「山崎歴史民俗資料館」などがあります。
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下記の地図でご確認ください。
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赤穂市の城跡を訪ねて
赤穂城跡
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浅野長直の指示によって1648年(慶安元年)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。赤穂城は軍学に従って築かれた城で、徳川幕府が始まって約50年経ったにも関わらず、その構造は戦を強く意識したものです。複雑に折れ曲がる石垣や角度を換えた諸門に特長があり、城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある舟入は船が出入りできるようになっていました。1971年(昭和46年)国の史跡に指定、2002年(平成14年)本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定されました。
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坂越浦城跡
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室町時代、播磨地方を支配していた山名氏が築いたといわれています。その後、龍野城主・赤松村秀が支配したといわれています。江戸時代には、赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年8月21日火曜日
相生市の城跡を訪ねて
大島城跡(浜御殿)
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大島山は、相生湾に浮かぶ美しい離れ島でした。赤松氏が船橋をかけて築いた城は、「別名・浜御殿」と呼ばれるほど美しかったそうです。1336年(建武3年)、下司職(げししき:現地で実務を取っていた下級職員のこと。)だった7代・景知は、赤松円心に属し、弟の詮季や同族泰知と共に白旗城に立て籠もって新田義貞軍と戦いに戦功をあげましたが、留守中の大島城は、新田軍に焼き落とされたそうです。1710年(宝永7年)前川新右衛門が那波新田を開墾した際に陸続きとなったそうです。大島山は藤の名所として知られ、当時の武将などが「藤見の宴」に興じたといわれています。
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感状山城跡
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感状山(かんじょうさん:標高300m、徒歩約45分)に築かれ、人の手による破壊も少なく、石垣や建物跡・礎石、井戸跡などの遺構もよく残っており、播磨地方の代表的な中世の山城遺構で、国の史跡に指定されています。また、1336年赤松則祐がこの城に立て篭って、新田義貞の進攻を約2か月近く足止めしました。後に、当時の室町幕府の将軍・足利尊氏から感状(主君などが部下の戦功を賞して出した文書のこと。)を与えられたことから、感状山と名付けられたそうです。
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浅野陣屋跡
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赤穂・浅野家の分家、若狭野・浅野家の陣屋跡です。約500坪の敷地には、藩札を作っていた札座跡や本宅・内庭・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。近年その配置図も発見されています。本家は浅野内匠頭の刃傷事件で取つぶされましたが、それより前1671年(寛文11年)、若狭野12ケ村三千石の直参旗本(じきさんはたもと:江戸幕府に直属した一万石以下の武士のこと)として明治まで続きました。ちなみに、当陣屋の表門は相生市内の西法寺に移築されたそうです。
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下記の地図でご確認ください。
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