枝吉城跡
|
|
枝吉城(えだよし)は、黒田官兵衛の母・明石氏の出身地です。明石氏は歌人・明石正風(あかしまさかぜ)の娘で、雅な女性で、官兵衛に大きな影響を与えました。彼が14歳の時に死去。
|
|
|
|
志方城跡・観音寺
|
|
戦国時代の軍師・黒田官兵衛の正室・光(てる、幸圓:こうえん)が生まれた櫛橋家の居城・志方城があった場所です。黒田官兵衛の正室・光は、大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「中谷美紀さん」が演じられていました。
|
|
|
|
加古川城跡(称名寺)
|
|
1577年(天正5年)加古川城(現:称名寺)で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議のこと。)が開かれました。糟谷武則(12代加古川城主)は、官兵衛の推挙で秀吉に仕え、三木合戦の箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)で活躍しました。また、糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、三木合戦では箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣し活躍しました。
|
|
|
|
阿閇城跡
|
|
1578年(天正6年)秀吉が三木城を攻めた際に、加古政顕が別所方として三木城に入城。阿閇城(あえじょう)は、小城ながらも海上ルートの監視に適していたため、秀吉は毛利から三木城への物資の流入を防ぐためにこれを押え、織田方についた別所重棟を城に入れました。同年4月、雑賀衆を含む約8,000人の毛利水軍が阿閇城へと迫りましたが、官兵衛は約500の兵で毛利勢を撃退。
|
|
|
|
下記の地図でご確認ください。
|
|
|
|
|
播磨観光情報「のんびり播磨、ゆっくり散策」は、播磨の観光スポットや観光ルート、播磨の伝統文化、播磨のうまいもん、播磨のお祭りやイベント、播磨の文化が体験できる体験情報など、キメ細かく紹介する観光情報サイトです。
2018年7月31日火曜日
黒田官兵衛ゆかりの地・東播磨
2018年7月30日月曜日
黒田官兵衛ゆかりの地・姫路 2
1580年、秀吉から揖東郡(いとうぐん、現:姫路市網干区)1万石を与えられました。官兵衛は、揖保川の河口近くにある陣屋に秀吉を招待し茶会を催しました。この茶会場の大松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、その優美な光景を喜んだ秀吉は、この陣屋を「鶴松亭(かくしょうてい)」と名付けたそうです。
|
|
|
|
青山古戦場跡と瓦山
|
|
青山古戦場跡
|
|
黒田官兵衛の初戦の地・青山古戦場(姫路市青山)です。青山合戦で官兵衛が陣取った「青山」とは、現在下手野にある「船越山」のことで、当時は「瓦山(姫路市下手野)」と呼ばれていました。
|
|
瓦山(現:船越山)
|
|
書写山・圓教寺
|
|
美作国境付近で戦っていた秀吉は、三木の別所氏が蜂起すると書写山圓教寺の十地坊(大講堂の横から白山権現に向かう途中にあり、標高360mの書写山の最も高い峰)に入り、戦いに備えたそうです。
|
|
|
|
實貞山・心光寺
|
|
黒田家の菩提寺。黒田家の菩提寺で黒田官兵衛の母、心光寺殿長寿大姉の院号を取って「心光寺」と名付けられたそうです。
|
|
|
|
廣峯神社と御師屋敷跡
|
|
備前の福岡(現:岡山県瀬戸内市)からこの地にきた黒田官兵衛の祖父・重隆(しげたか)は、御師屋敷に寄宿(きしゅく)し、一族に伝わる目薬を売り、財を築き、当時姫路を治めていた小寺政職(まさもと)に仕えました。ここ広峯神社は、黒田家の起源ともいえる特別な場所なのです。
|
|
|
|
増位山・随願寺
|
|
官兵衛の叔父・黒田高友は僧「休夢(きゅうむ)」として増位山の地蔵院に出家。茶人と和歌に優れ、秀吉に御伽衆(おとぎしゅう)として仕え、茶会にも招かれました。
|
|
|
|
播磨国総社
|
|
1567年、職隆が老朽化していた拝殿・神前御門板葺から瓦葺に再建し、1577年6月11日の「一ツ山祭」が執行されました。1580年9月揖東群において、官兵衛が一万石の大名に列せられた時、黒田家の旗印を制定し、総社で祈祷を受けたそうです。1584年、更に制札を与え、総社の保護に努めました。
|
|
|
|
姫路城
|
|
1561年(永禄4年)黒田職隆が姫路城を改築。1580年、羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉は3層の天守閣を築く。現在も秀吉時代の野面積石垣が残っている。
|
|
|
|
黒田二十四騎とは
|
|
黒田官兵衛の優れた側近のことで、井上九郎右衛門、小河信章、菅正利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山善助、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤又兵衛、竹森次貞、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀定則、益田正親、三宅家義、村田吉次、母里太兵衛、吉田長利の24名です。大河ドラマ「軍師・官兵衛」では、井上九郎右衛門には「高橋一生」さん、後藤又兵衛には「塚本高史」さんが演じられていました。
|
|
母里太兵衛生誕の地
|
|
母里太兵衛(もり・たへえ)は、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み取ったことで知られる日本一の酒豪です。母里太兵衛は、黒田二十四騎の一人で、大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「速水もこみちさん」が演じられていました。
|
|
|
|
栗山利安生誕の地
|
|
栗山利安(四郎右衛門、通称:善助)は、1579年有岡城(伊丹市)から官兵衛を助け出し、1600年には大坂から光圓(如水夫人)、ねね姫(長政夫人)救出で活躍した。1551年ここ栗山町で生まれた。栗田善助は、黒田二十四騎の一人で、大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「濱田岳さん」が演じられていました。
|
|
|
|
下記の地図でご確認ください。
|
|
|
|
|
2018年7月29日日曜日
黒田官兵衛ゆかりの地・姫路 1
軍師・官兵衛
|
||
NHK・大河ドラマ「軍師・官兵衛」でお馴染の黒田官兵衛は、大きな転機となるのが羽柴秀吉との出会いでした。播磨の豪族達が、毛利か、織田か、で揺れ動く中、織田に付くよう主君・小寺氏を説得。信長の命で秀吉に従うことなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上。それ以降、秀吉の懐刀(ふところがたな)として播磨を制定し、中国・四国・九州を征伐していきます。中でも、備中高松城の水攻めの際、本能寺の変で織田信長の死去が知らされ、肩を落とす秀吉に今が天下取りのチャンスと進言。「中国大返し」を実行させました。これらのエピソードからも、時代を見通す慧眼(えげん)の持ち主であったことが伺えます。また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上土牢(つちろう)に幽閉されましたが、秀吉を裏切らず忠節を貫いた「信念の人」でした。各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に九州征伐の論功行賞で豊前国の6郡を与えられ、豊前・中津へ移り、黒田家筑前52万3千石の礎を築きました。
|
||
キャスト
|
||
大河ドラマ「軍師・官兵衛」では、黒田官兵衛役に「岡田准一さん」、官兵衛の正室・光役に「中谷美紀さん」、織田信長役に「江口洋介さん」、信長の正室・お濃役に「内田有紀さん」、羽柴(豊臣)秀吉役に「竹中直人さん」、秀吉の正室・おね役に「黒木瞳さん」、徳川家康役に「寺尾聡さん」、明智光秀役に「春風亭小朝さん」が演じられていました。
|
||
御着城跡と黒田家廟所
|
||
御着城跡
|
||
赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆(まさたか)が築いた城で、黒田官兵衛は政隆の子・小寺政職(まさもと)にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で家老として仕えました。大河ドラマ「軍師・官兵衛」では、小寺政職役には「片岡鶴太郎さん」が演じられていました。
|
||
黒田家廟所
|
||
|
||
深志野構居跡
|
||
黒田官兵衛の家老屋敷跡で、門前池の南には「門前」、手前の思出川の南には「構居所」、その南には「宿所」と呼ばれ、一帯が武家屋敷に関わる特別の地域であったことがわかる。特に諏訪大明神の祠が残る裏の竹林には、「深濠」や「石垣」が数カ所残っています。
|
||
|
||
播磨国分僧寺跡
|
||
1578年(天正6年)毛利軍が包囲している上月城へ秀吉軍が救援に向かった隙を狙い、三木の別所軍が姫路城に攻めてきたため、官兵衛は急遽姫路に引き返し国分寺に拠って撃退しようとしたが、別所軍は、秀吉の援軍がくると思い、国分寺に火を放ち、堂僧坊は一時に消失したそうです。
|
||
|
||
国府山城跡
|
||
妻鹿城跡(別名:国府山城)は、市川右岸の標高98mの甲山に築かれた山城で、1580年(天正8年)秀吉に姫路城を渡し、官兵衛は父・職隆とともに、ここ国府山城に移り住みました。
|
||
|
||
黒田職隆廟所
|
||
黒田職隆公廟所(びょうしょ)は、官兵衛の父・職隆の廟所で、地元の人達からは「筑前さん」と呼ばれています。大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「柴田恭兵さん」が演じられていました。
|
||
|
||
英賀城跡
|
||
英賀城は、室町時代の中頃赤松一族によって建てられましたが、1441年5月、城主の赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土とし英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより、焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となったそうです。
|
||
|
||
英賀本徳寺跡
|
||
1515年、蓮如上人の弟子・空善によって建立され、蓮如上人の孫・実玄が初代住持につき、播磨一向宗の拠点となりました。当時、信長と大坂本願寺が戦火を交えるようになると、英賀から大阪本願寺へ兵糧が運ばれました。また、英賀は大阪本願寺と結んだ毛利水軍の中継基地にもなっていました。信長は、1580年英賀城を落城しました。
|
||
|
||
亀山本徳寺
|
||
1582年、秀吉により英賀本徳寺は、300石の寺領を受け、亀山に移されました。
|
||
|
||
下記の地図でご確認ください。
|
||
|
|
||
2018年7月20日金曜日
姫路城の写真集 2
姫路城文化財の写真
|
乾小天守
|
|
|
大天守と小天守
|
大天守の階段と高窓
|
大天守の東西の大柱
|
武具掛け
|
武者隠し
|
長壁神社
|
備前丸
|
帯郭櫓(切腹丸)
|
太鼓櫓
|
お菊井戸
|
折廻り櫓
|
扇の勾配
|
大柱展示場
|
上山里
|
下山里
|
ワの櫓と石垣
|
茶室・鷺庵(ろあん)
|
ぼたん園
|
|
|
登録:
投稿 (Atom)



















