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三木城跡及び付城跡・土塁
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1578年(天正6年)5代目城主・別所長治は、織田信長の家臣・羽柴秀吉の軍に包囲され、1年8ヶ月に及ぶ兵糧(ひょうろう)攻めに遭い、1580年(天正8年)城主一族は、領民の命を救うために自刃(じじん)して三木城を開城しました。その後は、秀吉をはじめ家臣の杉原氏、中川氏などが城主となりました。1616年(元和2年)小笠原忠真(ただざね)を領主とする明石藩に編入され、1617年幕府による一国一城令により廃城となりました。その際、三木城の資材の多くは、明石城の建築部材に使われたといわれています。当時の城は、本丸(上の丸公園)、二の丸(図書館・美術館周辺)、新城、鷹ノ尾城(たかのおじょう:三木市役所周辺)、雲龍寺周辺までの一角であったといわれ、東播磨随一の規模だったそうです。本丸跡には、「今はただうらみもあらじ、諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世(じせい)の句の歌碑が建てられています。
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2018年1月28日日曜日
三木市の国指定史跡めぐり
2018年1月27日土曜日
加西市の国指定史跡めぐり
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玉丘古墳群
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6.2haの園内には、播磨風土記の「根日女(ねひめ)の恋」伝説を伝える玉丘(たまおか)古墳と6基の古墳が点在しています。この古墳は5世紀前期のもので、全長109mの前方後円墳です。県下6番目の大きさといわれ、墳丘や外堀が当時のまま残っております。
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2018年1月26日金曜日
小野市の国指定史跡めぐり
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広渡廃寺跡
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広渡(こうど)廃寺跡は、7世紀後半に建立された寺院で東西両塔、金堂、講堂などの遺構が確認されています。奈良の薬師寺と同じ伽藍(がらん)配置だったそうです。現在は、史跡公園として整備・復元され、縮尺1/20の模型が屋外に展示されています。
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2018年1月25日木曜日
上郡町の国指定史跡めぐり
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山陽道・野磨駅家跡
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山陽道・野磨駅家跡(やまのうまやあと)は、古代山陽道の播磨国最西端に置かれていました。古代山陽道の道幅は、約10mで北の丘陵鞍部から南の山裾を目指して直線的につくられていました。野磨駅家は、塀に囲まれた駅館院(えきかんいん)と呼ばれ、掘立柱建物が造られ、後に北西の山裾に移し、瓦葺礎石建物として再整備されました。特に移転後の施設は、出土した瓦や壁土などから、柱を赤く壁を白く塗った非常に立派な建物でした。野磨駅家は、「今昔物語集」などに説話の舞台として登場し、そこは、大蛇が巣くうほど荒廃した様子が描かれています。その話を聞いた清少納言も「枕草子」に記しており、当時の都でも有名な駅家だったことが伺えます。当時、駅家は全国に400カ所以上設置されていたそうですが、ほとんど残っておらず、この駅家跡は、奇跡的に良好な状態でのこされており、古代国家の交通体系などを明らかにするうえで非常に重要な遺跡であることから、2006年(平成18年)駅家跡として初めて国史跡に指定されました。
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<駅家とは>
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奈良時代、全国に整備された駅路(えきろ)と呼ばれる道路には、外国使節や役人らに対して馬の乗り継ぎや食料の支給、宿泊所の提供などを目的とした駅家(うまや)が一定の区間ごとに設置されていました。特に古代山陽道は、都と大宰府(九州)を結ぶ道として最重要視され、駅家は瓦葺で白壁の建物として整備されていました。上郡町には野磨と高田の2駅が設置されていたそうです。
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赤松氏城跡・白旗城跡
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白旗城は、南北朝時代(鎌倉時代末期)の武将・赤松円心が築き、守護大名・赤松氏発展の基となった山城で、赤松惣領家の本拠地として歴史に登場してきます。
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2018年1月24日水曜日
たつの市の国指定史跡めぐり
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吉島古墳
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新宮町吉島(よしま)の丘陵尾根にある、全長約30mの前方後円墳です。明治時代に竪穴(たてあな)式石室が発見され、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など6面の鏡、ガラス玉、鉄刀片、土器などが出土し、鏡は中国製と考えられ、時期は3世紀中期で日本最古級の古墳として知られています。
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新宮宮内遺跡
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新宮町新宮・宮内の集落跡で、縄文時代から平安時代まで生活していたそうで、最も栄えたのは約2000年前の弥生時代中期といわれています。発掘調査によって円形や方形の竪穴(たてあな)住居、墓、大きな溝、大量の土器や石器が見つかっています。分銅形土製品(ふんどうがたどせいひん)の出土数は、県内最多だそうです。
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2018年1月23日火曜日
相生市の国指定史跡めぐり
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感状山城跡
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感状山(かんじょうさん)城が築かれたれた時代は、「播磨古城記」「岡城記」などによると、鎌倉時代に瓜生左衛門尉(うりゅうさえもんのじょう)が築いたという説と、1336年(建武3年)赤松円心の三男・赤松則祐(そくゆう)が築いたという説があります。足利尊氏の追討をしていた新田義貞率いる軍勢を赤松円心の三男・則祐が奮戦し、約50日間足止めさせた結果、足利尊氏の反撃の機会を与えたことは歴史上有名です。この功績により足利尊氏が、赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれたそうです。感状山城は総石垣による曲輪の構えから、後世に手を加えたもので、戦国時代(1467年~1568年)にこの周辺を支配した宇喜多(浮田)氏によって改修されたものではないかという説もあります。
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2017年12月20日水曜日
赤穂市の国指定史跡めぐり
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赤穂城跡
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赤穂城は、1645年(正保2年)常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、1648年(慶安元年)から約13年の歳月を費やし、1661年(寛文元年)完成しました。
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大石良雄宅跡
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大石神社境内にある内蔵助の屋敷跡です。大石家3代が57年間住まれていました。当屋敷の長屋門は、城内に残る数少ない江戸時代の建築の一つで、主君の刃傷事件を知らせる萱野(かやの)三平達が叩いた門なのです。軒先の丸い鐙(あぶみ)瓦には大石家の定紋・二ツ巴が入っています。
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2017年12月18日月曜日
播磨町の国指定史跡めぐり
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大中遺跡
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1962年に発見された大中遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期(約1900年前)の遺跡で、いろいろな形の竪穴住居跡が約90棟発見されています。敷地内には、茅葺の住居が10棟復元され、隣接する播磨町郷土資料館では大中遺跡の様々な出土品や資料を見ることができます。また南隣の「兵庫県立考古博物館」には兵庫県内各地から出土した考古資料が多数展示されています。
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