船場川について
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船場川
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1617年(元和3年)姫路城主•本多忠政公は船場川を改修し、城下から飾磨津(姫路港)へ通じる約4㎞の間に舟運を開き、「船場川」と名付けました。北は、保城の飾磨井堰(いせき)で市川と別れ、姫路市街西を通り播磨灘に注ぐ約12㎞の河川。
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高瀬舟(イメージ)
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船場川を上下する高瀬舟は、米、木綿、薪、炭、塩などの生活物資を運び、1929年(昭和4年)まで運行していました。
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大蔵前(大蔵前公園周辺)
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その物資を保管する蔵が「船着場」周辺に建ち並んでいたことから「大蔵前(大蔵前公園から南)」と名付けられました。また、船着き場の少し北には、高瀬舟を待機させる「船溜り」がありました。
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亀の甲堰
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亀の甲橋近くに本多忠政の設計に基づいたという亀の甲堰(せき)がありました。この堰は、割石で亀の甲形の堰を築いて水位を上げ、備前門から外堀となった東側の堀に水を送る役目をしたと考えられる。
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備前門橋跡
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2014年(平成26年)産業道路拡幅工事中、備前門橋跡が確認されました。現在の福中橋の少し南で、西国街道はここから博労町・米田町を経由して龍野町へ通じていました。
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国道2号(中濠)と白鷺橋
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1921年(大正10年)旧今宿村から白鷺橋まで国道が開通。1932年(昭和7年)中濠を埋めて東へ延長。1933年(昭和8年)白鷺橋完成。
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車門橋と梅雨の松
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白鷺橋の150m北に架けられている小さな橋が「車門橋」で、この橋の東側に足軽か頭が植えたのが「梅雨の松」で、「播州皿屋敷」などに登場することで有名です。この松は、寛延元年頃に枯れたと伝えられています。
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西国街道
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船つなぎ石
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龍野町東端の民家に元船場川岸にあった船をつないだという巨石が庭石として置かれている。江戸時代この地に「せんざき屋」という豪商の屋敷があったといわれています。
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舟入川
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岩端から東へ船場川に流れ込む小川を利用して船の荷を上げ下ろしする舟入川を設けたといわれています。
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千姫像
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材木町の古い街並み
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船場川改修碑
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清水門外の船場川近くに痛みの激しい石碑があります。判読できないため諸説ありますが、1624年(寛永元年)姫路藩主・本多忠政の船場川改修工事完成を記念して建立された石碑との説が有力です。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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2017年2月28日火曜日
船場川沿いの文化財を訪ねて
2017年2月27日月曜日
国史跡播磨国分僧寺跡とその周辺を訪ねて
国分寺とは
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741年(天平13年)、聖武(しょうむ)天皇は、仏の力で天災や流行病から国を守り、平和を保つため、国ごとに国分僧寺(そうじ)と国分尼寺(にじ)を建てるよう命じられました。都には、全国の国分僧寺の総本山とも思われる東大寺(大和の国分僧寺)を建て、大仏を造り安置しました。
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播磨国分寺跡
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播磨国分僧寺は、御国野周辺は大きな古墳があり、豪族が代々住み早くから文化が発達していたこと。すぐ北を山陽道が通り、3kmほど南には継湖(つぎのみなと)という港があり、陸海ともに交通の要所であったことから御国野に建設されたといわれています。現在の牛堂山(うしどうさん)国分寺は、江戸時代に建てられたそうです。創建当時の奈良時代は、東西南北約200mもある正方形の広大な土地に、南大門・中門・金堂・講堂の他に七重の塔を備えた大きな寺で、20人の僧が住んでいたそうです。
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<国の史跡に指定>
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この播磨国分僧寺は、国の史跡に指定され、現在は史跡公園として保存されています。
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伽藍配置
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七重の塔跡
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ここには高さ約60mの七重の塔が建っていたと考えられています。内部は、金字金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)一部が安置されていました。基壇一辺長18.9mで、約1.7m暑さの版築状の盛土が確認されています。柱間3m・3.3m・3mで、中央の間がやや広いのが特徴です。周辺から鬼板瓦や青銅製の飾金具(水煙:すいえん)の断片が出土しています。
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南大門跡
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伽藍の南に開く正門。基壇は東西14m南北10.4mで中門よりやや小振り。建物は東西三間、南北二間の八脚門と推定。
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回廊跡
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食堂と中門をつなぐ形で、東西71.3m、南北51.7mの回廊跡を発掘。基壇化粧は瓦積みで、基壇幅約7m、梁行一間の単廊と想定。
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中門跡
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東西16m、南北10.6mの基壇を確認。建物は東西三間南北二間の八脚門。
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燈籠跡
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基壇は瓦積みで直径2.4m。基壇の下には堅固な地固めの痕跡と灯籠竿部を抜き取った跡を検出。灯籠復元は東大寺大仏殿前の金銅灯籠を参考にした。
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金堂跡
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東西36.9m、南北23.4mの基壇や石製階段の痕跡などが確認された。本尊仏を安置する中心仏殿にふさわしい間口七間、奥行き四間の建物が推定される。
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復元築地塀
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北の20.1mは古代工法、南の52.5mは近代工法により復元。壁面は3㎝毎に積み上げた版築の線と堰板の木目がくっきり、屋根瓦は国分僧寺創建瓦。
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播磨国分尼寺跡
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ここから600m北に国分尼寺が建てられ、尼僧が10人いたそうですが、残念なことに詳しいことは分かっていません。遺跡といわれる所から、創建当時のものと思われる瓦が出土しています。その文様は、まことに力強く流麗で、国分僧寺の瓦の文様もほぼ同じだったそうです。
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壇場山古墳
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5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘(ふんきゅう)の全長は143mで、県下第2位の規模です。(兵庫県の前方後円墳で大きさが1位は神戸市垂水区の五色塚古墳、3位は篠山市東本荘の雲部(くもべ)車塚古墳)墳丘は三段築制で、周濠をめぐらし、部分的に周堤が残る。後円部墳頂には縄掛け突起を有する竜山石製長持形石棺の蓋の一部が露出している。また、墳丘上では円筒埴輪・家形・盾形などの形象埴輪も採集されている。墳形は、大阪府仲津山古墳の約2分の1の相似形となっており、畿内政権との密接なつながりをうかがわせる。周囲にはかって数基の陪塚があったとされるが、現在では櫛之堂古墳・林堂東塚古墳の2基が残るのみである。また、北西には一辺約60mの方墳・山之越古墳がある。ちなみに、兵庫県の前方後円墳で大きさが1位は神戸市垂水区の五色塚古墳、3位は篠山市東本荘の雲部(くもべ)車塚古墳です。
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1921年(大正10年)国指定史跡に指定。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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2017年2月26日日曜日
黒田官兵衛と御着城周辺を訪ねて
黒田官兵衛
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この御着城は、大河ドラマ「軍師・官兵衛」でお馴染ですが、黒田官兵衛が大きな転機となるのが秀吉との出会いです。播磨の豪族が、毛利方?織田方か?で揺れ動く中、織田方に付くよう主君・小寺氏を説得。信長の命で秀吉に従うことなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上。それ以降、秀吉の懐刀として、播磨制定・中国攻め・四国・九州征伐などで数々の合戦で名をはせていきます。中でも、備中高松城で水攻めを敢行している折、本能寺の変により信長の死去が知らされ肩を落とす秀吉に、今が天下取りのチャンスであると進言し、「中国大返し」を実行させました。
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黒田家墓所
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これらのエピソードからも、時代を見通す慧眼の持ち主であったことが伺えます。また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上の間土牢で幽閉されました。それでも秀吉を裏切らず忠節を貫いた「信念の人」でした。各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に九州征伐の功績で豊前国の6郡を与えられ、豊前・中津へ移り、黒田家筑前52万3千石の礎を築きました。
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官兵衛は、59歳でこの世を去りました。
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黒田官兵衛・顕彰碑
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御着城跡
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姫路城から国道2号線を東へ、市川から更に東へ約3㎞。国道沿いに御着城跡公園(ごちゃくじょう、別名:天川城)があります。
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御着城本丸跡碑
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御着城跡縄張推定図
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城の中核に本丸(姫路市東出張所あたり)と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の濠、北と東は四重の濠、外郭部に家老屋敷や町家がありました。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走っています。御着城は、中世末期に西播磨最大の国だった小寺氏の本城で、東播磨を押えていた別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに「播磨三大城郭」といわれていました。
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小寺大明神
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御着城址碑(天川城址)
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西国街道沿いの古い町並み
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西国街道は、京都(東寺口)から高槻市の淀川右岸を通り、大阪市内を経ないで西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路でした。近世から近代にかけては、人・物・情報・文化の伝播を担う動脈でもありました。
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旧西国街道、天川に
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架かっていた当時の天川橋
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御着宿・本陣跡
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延命寺
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1885年(明治18年)明治天皇が山陽方面を巡行された際、ここ延命寺でご休憩されました。
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徳證寺
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徳證寺(とくしょうじ)伝によると国分尼寺で、毘沙門池の畔にあったといわれています。元は真言宗でしたが、1496年(明応5年)春住尼妙法が蓮如上人の法話を聞き真宗に帰依し、帰国後、国分寺村内に寺を移転しました。現在地は、小寺政隆の子則職の時代に移されました。
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法華寺と衣笠元超・元眞の墓
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江戸時代後期から代々御着在住の医師であった「衣笠家」の墓があります。衣笠元超は京都白川御殿で御殿医として仕え、後に諸国を行脚しこの地を訪れた際、大庄屋・天川氏の知遇を受け医院を開業しました。その子・元眞は家業を継ぎ医者をする傍ら漢学も教えていました。姫路藩が1828年(文政11年)に旧山陽道に架橋した旧天川橋に刻まれた詩を書いた書家と伝えられている。
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大榎と庚申堂
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天川の堤防にある大榎(えのき)は、樹齢600年姫路市の保存樹に指定されています。その大榎の下に庚申の青面金剛を祀った社、庚申堂(こうしんどう)があります。その横に、河川敷が住宅地になったことを記念して「廃川(はいせん)乃碑」が建てられています。この碑は旧天川橋の擬宝珠(ぎぼし)で造られています。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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ラベル:
中播磨の観光・姫路市の東・西部を訪ねて
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