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美濃部達吉
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美濃部達吉は高砂市生まれ。東大卒業後、ヨーロッパ留学、東大教授、貴族院議員、第2次大戦後には枢密顧問官を勤めた。上杉慎吉の君権絶対主義憲法論に対して天皇機関説を主唱。1934年(昭和9年)東京帝国大学名誉教授の称号を受ける。
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主著:「日本行政法」「憲法撮要」「日本国憲法原論」など
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高砂市立高砂公民館に、美濃部達吉・亮吉の蔵書や資料が「美濃部親子文庫」として公開されている。
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2020年1月31日金曜日
憲法学者「美濃部達吉」
2020年1月30日木曜日
町人学者「山片蟠桃」
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山片蟠桃
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山片蟠桃(やまがたばんとう、本名:長谷川有躬)は印南郡神爪村(現・高砂市)生まれ。江戸中・後期の経済論者・思想家。大坂で丁稚(でっち)奉公、両替商・升屋山片平右衛門に理財の才を認められ番頭となる。経営危機にあった升屋本家を再興、陸奥(むつ)仙台藩、豊後(ぶんご)岡藩他、諸藩の財政再建。その功により升屋本家の親類次席となり改姓。後に、独立し両替商を経営する傍ら儒学を懐徳堂で中井竹山(ちくざん)・中井履軒(りけん)兄弟に学び、天文学を麻田剛立(ごうりゅう)に学んだ。享年74歳。
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主著に「夢の代(しろ)」
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高砂市神爪五丁目の「かんな公園」内に「山片蟠桃の像」がある。
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2020年1月29日水曜日
帆布発明家「工楽松右衛門」
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工楽松右衛門
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工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、播州高砂(高砂市)生まれ、江戸後期の発明家。1785年従来の刺帆(さしほ)に代わる丈夫な織帆(おりほ)を創案。松右衛門帆と呼ばれ全国的に使用された。また、新田開発や港の防波堤築造、水路造成などの土木事業に独自の考案になる石船、砂船、轆轤(ろくろ)船、杭打船、底捲船などを使って難工事を容易にしたほか、材木運搬、石材運搬、沈船引揚などに工夫をこらした。
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高砂神社内に「工楽松右衛門」の銅像が建てられている。
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2020年1月28日火曜日
俳人「永田耕衣」
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永田耕衣
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永田耕衣(ながたこうい)は加古郡尾上村(現・加古川市)生まれ。15歳から始めた俳句を、「山茶花」「鹿火屋」などへ投句。1927年(昭和2年)「桃源」を創刊(6号で休刊)、以後、原石鼎主宰「鹿火屋」、石田波郷主宰「鶴」、山口誓子主宰「天狼」などを転々とし、1949年(昭和24年)に「琴座(リラザ)」創刊(503号で終刊)。1958年(昭和33年)「俳句評論」創刊とともに同人となる。1985年(昭和60年)秋、2万句の中から自選集成した「永田耕衣句集成 而今」を刊行。1995年(平成7年)の阪神大震災で神戸市須磨区の自宅が全壊したが、半年後、震災をテーマにした句集「自人」を発表。1997年(平成9年)死去。兵庫県加古川市の泉福寺に埋葬される。
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句集:「加古」「傲霜」「驢鳴集」「吹上集」「悪霊」「闌位」「冷位」「殺仏」などがある。他に、自選全文集「濁」、書画集「錯」、エッセイ集「山林的人間」「陸沈条条」などもある。
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泉福寺(加古川市)
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2020年1月27日月曜日
俳人「滝 瓢水」
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滝 瓢水
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滝瓢水(たきひょうすい)は、播磨国別府(加古川市)の富裕な船問屋に生まれる。江戸中期の俳人で、通称:叶屋新之丞のち新右衛門。俳諧においては、小西来山系の前句付作者として出発、のち松木淡々に師事。おおむね郷里を中心として、雑俳点者の地歩を固めていった。「続俳家奇人談」は,「俳事に金銀を擲ちて後まづしかりしも,心にかけぬ大丈夫」と、その人品を伝える。「五百韻」「播磨拾遺」など,編著は多い。画事もよくしたという。享年79歳。
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句集:「柱暦」「はりま拾遺」など
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宝蔵寺
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宝蔵寺の句碑
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2020年1月26日日曜日
念仏信仰の先駆者「教信」
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教信
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平安初期の念仏行者。後世の伝では京都の人。光仁天皇の後裔とも伝え、興福寺で出家し、諸国を巡歴したというが、いっさい不明。播磨国賀古郡賀古駅の北に草庵を結び、在俗の沙弥(しやみ)として妻子を養い、村人に雇われて生活していた。西方浄土を念じて日夜念仏を怠らず、村人は「阿弥陀丸」と呼んでいた。
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日本における浄土教、念仏信仰(称名念仏・専修念仏)の先駆者で、後世の僧侶達に多大な影響を与えた。
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教信寺(加古川市野口町野口465)は、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の創始者である教信が開基。
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2020年1月25日土曜日
画家「寺島紫明」
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寺島紫明
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寺島紫明(てらじましめい)は明石市生まれ。小学校時代からスケッチを好み、雑誌「少年倶楽部」などに応募。鏑木清方(かぶらききよかた)に師事。長田幹彦連載小説「青春の夢」の挿絵で有名になる。第8回帝展で「夕なぎ」が初入選。伊東深水と並ぶ美人画家となり、日展審査員・評議員を務めた。1961年(昭和36年)に文部大臣賞、1969年(昭和44年)に日本芸術院賞を受賞。
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作品は、1970年(昭和45年)芸術院恩賜賞(おんししょう)受賞した「舞妓」や「夏」など多数。
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明石市立文化博物館で何度か寺島紫明展が開かれている。
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2020年1月24日金曜日
実業家「中部幾次郎」
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中部幾次郎
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中部幾次郎(なかべいくじろう)は、1866年明石郡林村(現・明石市)生まれ。海産物商・林兼商店を開業。1905年(明治38年)日本初の石油発動機付鮮魚運搬船を建造。朝鮮近海で活躍。1924年(大正13年)に大洋漁業の前身となる林兼商店を創立。1936年(昭和11年)日本初の国際捕鯨母船を建造。船団で南氷洋捕鯨を展開。1945年(昭和20年)日本最大の水産会社・太洋漁業(マルハ)に改称。1946年(昭和21年)貴族院議員に勅選される。享年80歳。
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2020年1月23日木曜日
民俗学者「柳田國男」
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柳田國男
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1875年(明治8年)福崎町・辻川の松岡家に生まれた柳田國男は、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り、法制局参事官を経て貴族院書記官長を歴任、1919年(大正8年)退官。在野で研究に専念し、日本民俗学を創始者。1951年(昭和26年)文化勲章受賞。1962年(昭和37年)正三位勲一等旭日大綬章授与。福崎町名誉町民第1号。
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日本民俗学の父・柳田國男は、著書・故郷七十年に「私の家は日本一小さい家だ。実は、この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」と書いています。生家はもと辻川の街道に面していましたが、1974年(昭和49年)に國男のゆかりの地、鈴ノ森神社の傍に移築されました。1972年(昭和47年)兵庫県指定重要民俗文化財に指定。場所は、柳田国男・松岡家記念館の西隣。
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柳田國男生家
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2020年1月22日水曜日
ファッションデザイナー「高田賢三」
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高田賢三
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高田賢三(たかだけんぞう)1939年姫路市生まれ。兵庫県立姫路西高等学校卒業後、文化服装学院デザイン科師範科卒業。同級のデザイン科9期生には、コシノジュンコ、松田光弘、金子功、北原明子ら、後のファッション界をリードする「花の9期生」と呼ばれた。卒業後、「三愛」「ミクラ」を経て1960年に第8回装苑賞受賞。1965年渡仏。「ビューロードスチール」に勤めた後、1970年独立。パリ2区のギャルリ・ヴィヴィエンヌで、プレタポルテのブティック「ジャングル・ジャップ」(現ケンゾー)をオープン。「ELLE」の表紙も飾り、パリ・コレクションで注目される世界的ファッションブランドの1つに成長した。
1991年、デザイナーを引退。1993年フランスの有名ブランドメーカー「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン」にブランド売却。しかし、2003年独立デザイナーとして復帰。2004年にはアテネオリンピックの式典・移動用ユニフォーム(ユニクロ)のデザインを担当した。 |
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1989年5月、故郷の姫路で初めての野外ファッションショー「ケンゾー・IN・HIMEJI」(姫路城三の丸広場)、「KENZO展」(姫路市立美術館)を開催。 |
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世界的ファッションデザイナーの髙田賢三さんが図柄を描いた2種類の緞帳(どんちょう)が、2021年秋竣工の「姫路市文化コンベンションセンター」の大・中ホールに備え付けられる。 |
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2020年1月21日火曜日
落語家・人間国宝「桂米朝」
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桂米朝
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桂米朝(かつらべいちょう:本名・中川清)は姫路市生まれ。入門当時、滅びかけていた上方落語の復興に尽力し、6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治と共に「上方落語の四天王」と呼ばれていた。1996年(平成8年)、上方落語界としては初めて(落語界では2人目)「人間国宝」に認定され、2009年(平成21年)演芸界初の「文化勲章」受章者となる。享年89歳。
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2020年1月20日月曜日
歴史作家「司馬遼太郎」
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司馬遼太郎
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祖父の代まで姫路市広畑区に在住。司馬遼太郎(しばりょうたろう)は大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年(昭和35年)、「梟(ふくろう)の城」で直木賞受賞。1961年から文筆に専念し、歴史小説を一新する話題作を続々と発表。1966年に「竜馬がゆく」で菊池寛賞受賞。「国盗り物語」「播磨灘物語」など「司馬史観」とよばれる雄大な構想と巧みな語り口で読者を魅了した。1971年開始の「街道をゆく」などの連載半ばにして、1996年急逝。「司馬遼太郎全集」は、全68巻がある。
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1993年(平成5年)文化勲章受章。
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