船場本徳寺
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東本願寺(真宗大谷派)の別院で、姫路船場別院・轉亀山(てんきざん)本徳寺といいます。地元では「船場御坊さん」と呼ばれています。1602年(慶長7年)本願寺東西分立により、本徳寺は東本願寺に帰属しますが、姫路藩主・池田輝政の時、西本願寺に転派します。1618年(元和3年)、播磨国に東本願寺の再興を姫路藩主・本多忠政に願い、翌年、池田組屋敷100間四方の土地が寄進され、13間四面の本堂が建立されました。これが姫路・船場本徳寺の創建です。1663年(寛文3年)東本願寺から「別院」の称号が付与されます。以後、二度の失火と戦災にあいましたが、本堂は免れました。現在の本堂は、1718年(享保3年)に再建されたものです。
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播磨門徒の信仰の中心
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この本徳寺建立により、播磨門徒の信仰の中心としてその重要性を高め、姫路の船場地区の繁栄に大きく貢献しました。1873年(明治6年)勧開中学校(旧制姫路中学校、現在の県立姫路西高等学校)の開校、1887年(明治20年)崇徳(すうとく)学校開設(児童数360名に達す)など、教育の発展にも寄与しました。境内には、薬師山から移した勤王の志士の墓石や西南の役記念碑があります。
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市指定重要文化財
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2006年(平成18年)3月船場本徳寺の本堂・表門・鐘楼・大玄関の4棟が姫路市指定重要文化財に指定されました。
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表門
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大玄関
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姫路駄菓子(油菓子)
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姫路藩家老の河合寸翁は、藩を財政再建させるため藩政改革や農工業の振興を進め、木綿や小麦粉、菜種油、砂糖など諸国の物産を姫路に集め、商業・物流の振興に力を入れていました。姫路で「和菓子づくり」が盛んになったのは、姫路藩主・酒井家と家老・河合寸翁が茶人であったからといわれています。産業振興の一環として菓子職人を江戸や京都・長崎にまで派遣し、製造技術を習わせ、この職人たちの持ち帰った技術が「姫路の菓子づくりの原点」といわれています。姫路菓子を特色づけるものとして「油菓子(かりんとう)」があります。油菓子は、ポルトガル・オランダ船により、長崎に伝えられ全国各地に広がったといわれています。姫路藩・家老・河合寸翁の政策のもと、各地から集まった良質の小麦粉や菜種油等を使った「姫路駄菓子(油菓子のこと)」は、全国にその名を馳せるようになりました。これは、昭和初期まで続き、姫路の船場本徳寺の表門前には、姫路駄菓子の店、数十軒が軒を連ね大変賑わったそうです。しかし、第二次世界大戦の空襲で船場本徳寺周辺は焼失してしまいました。
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船場御坊・表門前
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姫路菓子製造組合碑
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姫路楽市復活!!
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姫路・船場地域の活性化を目的に、地元の人たちが協力し、秀吉がこの地で始めたといわれている「姫路楽市」を船場御坊で復活!!
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2016年12月5日月曜日
姫路船場別院・轉亀山本徳寺
ラベル:
中播磨の観光スポット
2016年12月3日土曜日
別格別院本徳寺(亀山御坊)
別格別院本徳寺(亀山御坊)
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浄土真宗本願寺派で、地元では「御坊さん」の名で親しまれています。当時は、別格別院・中本寺と呼ばれていました。開基(かいき:寺院を始めて建てること)は蓮如上人(れんにょ)が行い、初代住持(じゅうじ:住職)には、孫の実玄(じつげん)が努めました。1492年(明応元年)、本願寺第8代蓮如上人の弟子・空善(くうぜん)はじめ5人の御弟子が、播磨国・英賀の浦(現在の姫路市英賀保)に道場を建立、布教伝道にあたり、翌年本徳寺の寺号を公称し、西の拠点として発展しました。
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英賀から亀山に移築
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1580年(天正8年)秀吉により英賀城を落城され、播州の中心を英賀から姫路に移し、本徳寺も亀山(現在の姫路市亀山)に移築されました。1602年(慶長7年)本願寺東西分立により、本徳寺は東本願寺に帰属しましたが、姫路藩主・池田輝政の時、西本願寺に転派しました。
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1868年(慶応4年)本堂・蓮如堂を焼失。そのため、現在の本堂は西本願寺・北集会所(しゅうえしょ)を移築したそうです。柱には「新撰組」による刀傷の後が残っています。
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西国の総録所
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江戸時代は、西国の総録所(そうろくしょ)ならびに傘下に380余の本寺として重要な役割を果しました。明治以降、本願寺の改革が行われ、亀山本徳寺は『別格別院制』の制定によって、『播磨別格別院』となり、播州の全門信徒を構成員として組織され、念仏の中心道場としての役割を担い、亀山は栄えました。
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国登録有形文化財
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中宗堂
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境内の30棟の堂塔(どうとう)の内、「中宗堂」が2003年(平成15年)国登録有形文化財に登録されました。
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兵庫県指定文化財
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本堂
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大広間
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経堂
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他に、庫裡(くり)等、4棟が兵庫県指定文化財に指定されています。
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姫路市指定文化財
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太鼓楼
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浄華堂
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他の15棟及び絹本著色(けんぽんちゃくしょく)親鸞上人絵伝、英賀御堂梵鐘(ぼんしょう:寺のつりがね)が姫路市指定文化財に指定されています。
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ロケ地としても有名
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アクセス
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亀山御坊へは、山陽電鉄・亀山駅下車、東へ約100mです。
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ラベル:
中播磨の観光スポット
2016年12月2日金曜日
姫路藩の港として栄えた「飾磨津」を訪ねて
飾磨津について
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飾磨津(しかまづ)は、姫路城の外港として重要な位置を占め、姫路市飾磨区玉地の向島には、姫路藩の水軍・御船手組(おふなてぐみ)が置かれていました。江戸時代、飾磨津といったのは、須加町・細江町・上町・大町・宮町・御幸町・東堀町・田町・上英加町・下英加町・都倉町の11町です。このうち、須加町・大町・宮町・御幸町・東堀町・田町の6町を浦手(うらて)、細江町・上町・上英加町・下英加町・都倉町の5町を岡手(おかて)と呼ばれ、東堀町には、姫路忍町以南の町方20町を支配する町会所が置かれていました。
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御船役所之碑
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この御船役所には、御船手とよばれる士族が常駐し、藩の海事業務を取り扱っていました。御船手組には大舟頭、小船頭、小頭、矢倉、使役、御水主(おんみご)の階級があり、定員は200名で、「城付き」(藩主が国替えになっても従わず、そのまま新藩主に仕える)の特例がありました。保有船舶は時代によって違いますが、約60隻といわれています。
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恵美酒天満神社
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漁場の神として戎の神を祭ったので恵美酒といわれています。絵馬に描かれている「神護丸」は、姫路藩が建造した西洋帆船で藩の御用船であると共に商船としても利用されました。船の大きさは、長さ49m、乗組員23名、千二百石以上と伝えられています。拝殿入り口の力石は、大浜岩吉が1842年(天保13年)奉納したものです。
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東 堀
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東堀は、古い港町で河岸(かし)には回船問屋が軒を並べ、大阪方面への船着場として繁栄していました。当時、姫路の特産品であった姫路木綿は船場川を利用して東堀町の木綿荷受所に回漕され、江戸積みが行われていました。
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東堀町会所
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有本芳水碑
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ここ東堀町には「東堀町会所」が置かれていました。1873年(明治6年)から飾学(しかがく)学校に利用され、1877年(明治10年)から姫路警察署飾磨交番に使用されていました。建物は現存しません。
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姫路藩水運跡
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姫路藩領内6ヶ所にあった米蔵の一つで、飾磨にも置かれて「飾磨御蔵」と呼ばれていました。船場川と宮堀川の水運を利用して、高瀬舟で大阪から届いた米や物資を姫路城下まで輸送されていました。
現在の御幸橋西詰一帯(宮公園一帯)は、米蔵の船着場でした。飾磨御蔵の場所は、その船着場の北側周辺にあったといわれています。また、ここ宮町周辺には飾磨市役所庁舎があり、姫路市と合併する昭和初期までは、飾磨市の官庁街として大いに賑わっていました。 |
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姫路藩御茶屋之址
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姫路藩主・榊原政邦が建てた姫路藩御茶屋は、現在のNTT西日本飾磨別館周辺にありました。建物は1928年(昭和3年)に埋められ残念ながら現存しませんが、国道250号線(浜国道)沿いに「姫路藩御茶屋之址」が建てられています。
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御蔵跡
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姫路藩領15万石の内、数万石の米を保管していた蔵の跡です。船場川と宮堀川の水運を利用して米の輸送が行われていました。付近には大きな船溜りがありました。
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魚屋堀之碑
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魚屋は、岡上家の屋号です。堀の大部分は昭和6年の臨海道路築造の際、埋め立てられました。
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浦手番所跡之碑
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飾磨津川口御番所ともよばれ、姫路藩が船の出入りの多い海岸部に設けた番所で、室津・高砂・家島にも置かれていました。
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湛保と藤田翁顕彰碑
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飾磨の湛保(たんぽ)は、四国の丸亀港を参考にして、1846年(弘化3年)わずか6ケ月で完成されました。排水のために水車四十数台を使用するという大土木工事で、掘り出された土砂を積み上げてできた小山は、弘化山と命名されたといいます。完成後は、湛保周辺は大変賑わいました。
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この築港に特に功労のあった藤田祐右衛門は大浜の人で、肥料問屋を営む町人でした。防風のために私費で数千本の松を植えましたが、今はその面影もありません。湛保の入り口に彼の顕彰碑が建っています。
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姫路藩御台場跡之碑
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幕末、姫路藩が大砲数門を設置した場所で、砲手数名が勤務し、網干沖に標的をおいて訓練したといわれています。
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浜の宮天満神社
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祭神は菅原道真です。社前の常夜灯は、魚問屋・生魚仲買中・釣船中・魚充子中・など漁業関係者が奉納したものです。秋祭りは、屋台の台場さしで有名です。
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菅原道真像と歌碑
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とも網の上に座った姿で、菅公小憩の地という伝承をもとに作られました。坐像のそばには、「東風吹かばにほいおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」の歌碑が建てられています。
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津田の細江
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「風吹けば波がたたむと、待つ程に、都多の細江に浦がくりをり」万葉集の山部赤人の歌ですが、この都多の細江は、船場川の川口で、思案橋付近だといわれています。
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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ラベル:
中播磨の観光・姫路市南部
2016年12月1日木曜日
140年の栄華を誇った「英賀城跡」を訪ねて
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英賀について
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古くは「室街道」と呼ばれ、飾磨から津田・英賀・広畑・網干、更に室津にまで通じていました。この室街道の道中に英賀城がありました。ここ英賀は、秀吉の西国攻めで落城した英賀城と英賀本徳寺とともに栄華を誇った「まち」です。今も、英賀城や英賀本徳寺跡・英賀神社といった当時の歴史遺産が数多く残っています。
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水城と呼ばれた「英賀城」
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英賀城は室町時代の中頃、赤松一族によって造られましたが、1441年5月、城主の赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土として英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより、焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となってしまいます。
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復元土塁
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英賀城郭区域復元図
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野中口之跡
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英賀神社の英賀城土塁跡
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岡芝口跡碑
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英賀本徳寺跡石碑
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夢前川・歌野橋の北側周辺の川底(英賀本徳寺跡復元図遠藤博善:測量の歴史より)に英賀本徳寺がありました。この本徳寺は、1492~1501年(明応年間)に蓮如上人の弟子・空善が建立した寺で、後に、蓮如の孫・実玄を迎え、播州浄土真宗の本拠とし、1515年(永正12年)英賀本徳寺が完成しました。その後、秀吉の英賀城攻略の後、亀山へ移されました。1928年(昭和3年)英賀村の青年団が英賀本徳寺跡に石碑「英賀本徳寺址」を建てますが、1941年(昭和16年)河川付け替えで明連寺の境内に移されました。
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英賀城下の港・田井ケ浜跡
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英賀城は、赤松氏の居城でしたが、三木通近が白浜から移り、新城を築き、土塁をめぐらせ田井ヶ浜に港を開き、一大城郭を築き「岩繁城(いわつきじょう)」と名付けました。NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」でも放映されたが、毛利軍が播磨に上陸したのが「英賀城下の港・田井ケ浜(姫路市飾磨区中浜町)」なのです。
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英賀城本丸跡石碑
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この英賀城本丸跡石碑は、英賀城本丸のあったところに1960年(昭和35年)建てられました。
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井之口・芝の口碑
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井ノ上口碑
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芝の口碑
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下記の地図で所在地をご確認ください。
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ラベル:
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