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姫路藩初代藩主・池田輝政
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池田輝政が築城した姫路城
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尾張国清洲(愛知県清洲町)の生まれで、信長の重臣・池田恒興の次男。1580年、荒木村重の属城・花熊城(神戸市)攻めに参陣。1584年、小牧・長久手の戦で父・恒興と兄・元助を亡くし、家督を継ぎ、大垣城主となる。1594年、秀吉の計らいにより徳川家康の娘・督姫(とくひめ)を継室(けいしつ)に迎え、5男をもうけ松平姓を許されました。後に、神君の婿・姫路宰相百万石・西国将軍などと称されました。1600年、関ケ原の戦で東軍に属し、織田秀信のこもる岐阜城を攻略し、その功績で播磨・姫路52万石、弟・長吉が因幡・鳥取6万石。1603年、次男・忠継が備前28万石。1610年、三男・忠雄が淡路6万石を与えられ、一族合計所領高が92万石となる。1613年(慶長18年)1月25日急死。享年50歳。
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2018年9月6日木曜日
初代姫路藩主「池田輝政」
2018年9月5日水曜日
姫路城主「羽柴(豊臣)秀吉」
姫路城は「秀吉の出世城」
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秀吉が築いた姫路城
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黒田官兵衛(孝高)は、秀吉の西国攻めの拠点とするため、自分の居城を秀吉に献上。秀吉は、早速築城に取り掛かりました。その城は、単に土塁を築いた山城ではなく、石垣を高く積み上げた堅固な構えの3層の「望楼型天守」で烏のように真っ黒な城でした。1581年、西国街道で初めて天守を構えた城が完成しました。それを祝い城内で「大茶会」が開かれました。この後、秀吉は備中に入り、高松城水攻めの最中に起こったのが、1582年6月2日「本能寺の変」でした。それを聞いた秀吉が、明智光秀を討つため京に向けた10日間の大移動が「中国大返し」です。この後、一気に天下人と昇りつめました。姫路城が秀吉の出世の拠点となったことから、「姫路城は、秀吉の出世城」といわれるようになりました。その後、秀吉は大坂城を築き、姫路城主には、弟・羽柴秀長や木下家定がなりました。豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月18日死去。享年62歳。
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2018年9月4日火曜日
軍師「黒田官兵衛」
黒田官兵衛
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黒田官兵衛・顕彰碑
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NHK・大河ドラマ「軍師・官兵衛」でお馴染の黒田官兵衛は、大きな転機となるのが羽柴秀吉との出会いでした。播磨の豪族が、毛利か織田で揺れ動く中、織田に付くよう主君・小寺氏を説得。信長の命で秀吉に従うことなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上。それ以降、秀吉の懐刀(ふところがたな)として播磨を制定、中国・四国・九州を征伐していきます。中でも、備中高松城の水攻めの際、本能寺の変で織田信長の死去が知らされ、肩を落とす秀吉に今が天下取りのチャンスと進言。「中国大返し」を実行させました。これらのエピソードからも、時代を見通す慧眼(えげん)の持ち主であったことが伺えます。また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上土牢(つちろう)に幽閉されますが、秀吉を裏切らず忠節を貫いた「信念の人」でした。各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に九州征伐の功績で豊前国の6郡を与えられ、豊前・中津へ移り、黒田家筑前52万3千石の礎を築きました。享年59歳。
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下記の地図でご確認ください。
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2018年9月3日月曜日
中播磨・神河町の砥峰高原「ススキの草原」
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ススキの見頃
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9月下旬~11月上旬
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砥峰高原・ススキの草原
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標高約900mの砥峰(とのみね)高原は、広さ約90haの西日本では珍しいススキの草原です。ここ砥峰は、雪彦・峰山兵庫県立自然公園に指定され、砥峰高原が醸し出す四季それぞれの風景は県下随一です。2010年公開の村上春樹原作、映画「ノルウェイの森」や大河ドラマの「平清盛」「軍師官兵衛」のロケ地として知られています。また、毎年3月に行われる山焼きや9月の観月会、10月のススキまつりは有名です。
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砥峰高原・ススキの草原
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とのみね自然交流館
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砥峰高原の保全と管理の拠点として、また野外活動や自然観察を楽しむためのベースキャンプとして整備されています。建物に併設されている展望テラスからは、広大なススキ草原を一望に見渡せ、高原散策の「くつろぎの場」となっています。また「そば処」も併設されています。
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室町幕府の立役者「赤松円心」
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播磨守護・赤松円心(則村)
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1277年生まれ。千種川流域を支配した佐用荘の地頭。元弘(げんこう)の乱で、足利尊氏・佐々木道誉(どうよ)と共に六波羅探題(ろくはらたんだい:鎌倉幕府が京都六波羅に公家の監視のため設置した出先機関のこと。)を壊滅しました。1335年(建武2年)尊氏と共に政府に離反し、追討の新田義貞軍を播磨で阻止し、足利尊氏の室町幕府樹立に貢献しました。以後、播磨守護を務め、戦国時代にかけて多くの有力一族を輩出した名家・赤松家の基礎を築いた。また、禅に帰依(きえ)し、大徳寺創建にもつくしました。1350年1月11日死去、享年74歳。
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円心館
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2018年9月2日日曜日
書写山圓教寺の開祖「性空上人」
圓教寺開祖・性空上人
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書写山円教寺(摩尼殿)
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平安時代の天台宗の僧で京都に生まれ、通称「書写上人」と呼ばれました。937年、父死去後、母と日向(ひゅうが:現・宮崎県)に向かい、945年出家。霧島山と筑前(現・福岡県)の脊振山(せふりさん)で修行され、39歳にして「法華経(ほけきょう)」全巻を暗誦(あんしょう)し、持経の聖(じきょうのひじり)としての名声と人望を集めました。比叡山で天台教を学び、57歳のとき播磨・書写山に入り、草庵を結び(そうあん:粗末な仮小屋に住むこと)、圓教寺を開かれました。鳥獣にまで及んだ彼の慈悲心(じひしん)は、花山(かざん)法皇が深く帰依(きえ)し、門弟も多く集まりました。1007年3月10日死去、98歳入滅(にゅうめつ)。
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円教寺の食堂・大講堂
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下記の地図でご確認ください。
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2018年9月1日土曜日
「柿本人麻呂」播磨ゆかりの地を訪ねて
柿本人麻呂
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柿本神社(明石市)
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「万葉の和歌三神」「三十六歌仙」の一人で7世紀後半、持統・文武朝に活動した第一人者の歌人です。「ともしびの明石大門に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず」などの秀歌で知られ明石と深く繋がりがあり「柿本神社の祭神」となっています。
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人丸神社(姫路市)
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柿本人麻呂を祀っている神社と浅陰沼(あさかけぬま)は、稲岡山西の麓・青山公園内にありました。柿本人麻呂がこの地に住みついたとき、遠く「岩見の国(現在の島根県浜田市周辺)」にいる妻の夢をよく見られたといわれ、当時、この辺りを「妻見ケ丘」と呼ばれていたそうです。人麻呂詩歌「青山や あさかけ沼の みかくれに あはんとすれど 逢うよしもなし」が残っている。
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下記の地図でご確認ください。
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