2018年9月9日日曜日

好古園の写真集

好古園写真集

玄関
御屋敷の門
渡り廊下
御屋敷の庭
苗の庭の門
双樹庵と庭
茶の庭の門
流れの平庭の門
流れの平庭
流れの平庭の門前
夏木の庭の門
松の庭の門
松の庭
花の庭
竹の庭
築山池泉の庭の門
築山池泉の庭
築山池泉の庭の門前
築地塀


姫路城下・大正~昭和にタイムスリップ

姫路仲買市場開設の地

大正初期、中壕沿いの坂元町一帯に青果7件、海産物4件の仲買市場が開かれていました。ピーク時は、福中町まで業者が増え、大正末期には80軒を超え、姫路海産物青果組合が結成されました。昭和初期になると坂元町も狭くなり、久保町・京口などの新設市場街へと分散しました。現在でも、市場跡が残っています。

中壕は国道、外濠は鉄道に

外濠だったJR姫路駅
中濠だった国道2号線
外濠は鉄道の開通、中壕は1932年(昭和7年)国道2号線に。それまで、残っていた濠ですが、時代の要請から次々と埋め立てられました。国道2号線には「中濠埋立之碑」が建てられています。
中濠埋立之碑

大手前通り完成

姫路城下の大手筋は、明治中期まで現在の大手前通り(当時の名称:国府寺小路)の一筋西側の「中之門筋」で、1903年(明治36年)以降は現在の大手前通りの一筋東側の「御幸通り」がその役割を果たしていました。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、姫路大空襲で焼け野原となり姫路市の中心部は甚大な被害を受けました。その戦災復興のため戦災復興土地区画整理事業の目玉事業として、姫路城と国鉄姫路駅(現JR)を結ぶ道路(国府寺小路)の拡幅が姫路市により計画され、1949年(昭和24年)9月に着工、1955年(昭和30年)2月20日に完成し、盛大な式典が行われました。この道路は、建設当時「50m道路」と言われていましたが、一般公募により「大手前通り」と命名されました。当時は、大阪市の御堂筋がそう言われたように「飛行場でも作るのか」と揶揄(やゆ)されました。1984年(昭和59年)2月から1988年(昭和63年)にかけて「大手前通り・シンボルロード整備事業」が実施され、歩道はクスノキ(県木)が植えられ現在の姿となりました。この大手前通りは、姫路市の代表的な祭り、「お城まつりパレード(5月初旬)」、長壁神社の「ゆかたまつり(6月)」が行われ、姫路市民からも親しまれ愛されている道路です。

JR新幹線開通

1972年(昭和47年)3月15日、山陽新幹線新大阪~岡山間が開業。

JR山陽・播但・姫新線高架

JR山陽本線等姫路駅付近連続立体交差事業は、JR山陽本線約4.3km、JR姫新線約1.3km、JR播但線約1kmの高架化と貨物基地と車両基地の移設を行う、総事業費約632億円、事業期間1989年(平成元年)から2010年(平成22年)までの大規模な事業です。2006年(平成18年)3月、JR山陽本線高架切り替え完了。JR姫新線・播但線2008年(平成20年)12月22日、高架切り替え完了。これで、JR姫路駅周辺の鉄道の高架化がすべて完成しました。
大きく変わった姫路駅前

下記の地図でご確認ください。



徳川家康の孫「千姫」

徳川家康の孫「千姫」

姫路城・化粧櫓
2代将軍・秀忠と浅井長政の三女「江」との間に生まれる。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城に入る。豊臣家が滅ぶ直前に大阪城から脱出。姫路城主・本多忠政の子・忠刻と再婚、姫路城に入る。化粧料10万石で造営された西の丸に住み、忠刻病死で、江戸に帰り仏門に入るが、弟の3代将軍・家光に歓待され大奥に入る。1666年死去、享年70歳。
姫路城・西の丸御殿
姫路市本町68

千姫天満宮
姫路市山野井町1-3

下記の地図でご確認ください。



2018年9月8日土曜日

目次 1-5-1 姫路市中心部の観光地を訪ねて

【目 次】 1-5-1

姫路城下を訪ねて


姫路城外を訪ねて

【姫路城西部】

【姫路城北部】

【姫路城南部】


徳川家康の次女「督姫」

徳川家康の次女「督姫」

お城まつりの督姫
徳川家康の次女、池田輝政の御前として姫路に入城。1583年(天正11年)19歳で北条氏直に嫁ぎましたが、北条家は滅び氏直も病死。1593年(文禄3年)、豊臣秀吉の計らい(仲人)で、当時、三河吉田城主だった池田輝政と再嫁。輝政との夫婦仲は良く、5男2女に恵まれました。輝政の死後、姫路城で死去。享年51歳。


2018年9月7日金曜日

二刀流の剣豪「宮本武蔵」

剣豪・宮本武蔵

武蔵生誕の地
太子町宮本168石海神社内

武蔵生誕の地
高砂市米田町米田
江戸時代初期の二刀流「二天一流剣法」の剣豪で画家。母の家を継ぎ、宮本武蔵義恒または玄信(政名)と名乗った。13歳の時、佐用町平福で新当流・有馬喜兵衛との初決闘で勝利。以後、巌流島の佐々木小次郎との決闘など生涯60回以上の決闘に一度も負けたことがないと伝えられている。その後、姫路藩主・本多忠刻と交流。姫路や明石等の城や寺院を作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)。この時期に夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で決闘。また、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子に迎え、姫路藩主・本多忠刻に出仕させている。晩年は、肥後藩主・細川忠利に仕えた。自著「五輪書」は武道の奥義を記した兵法書として有名。国の重要文化財に指定された「鵜図」「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」「紅梅鳩図(こうばいはとず)」をはじめ、水墨画・鞍・木刀などの工芸品も各地の美術館に収蔵されている。1645年(正保2年)5月19日千葉城の屋敷で死去、享年62歳。
武蔵初決闘の地
佐用町平福

下記の地図でご確認ください。