2017年6月15日木曜日

「堀川地区」の町名の由来について

寺町

西堀川の西には北から極楽寺・西福寺・延命寺・十輪寺・薬仙寺が立地し、寺町と呼ばれていた。この界隈は、かつて小間物町と寺町であったが、江戸時代中期までに小間物町が横町に改称され、明治初期に寺町が横町に編入されました。

農人町

農人町(のうにんまち)は、農民や塩田従事者が多く住んでいたことに由来します。高砂周辺の農村部を統括する大庄屋並格がいました。地内にはもとの高砂神社があり、小宮地(こみやち)といわれていました。1821年(天保12年)103世帯、480人が住んでいました。

南・北渡海町

町名は、多くの渡海船の船持や船乗りが集住したことに由来します。高砂町成立期には渡海町(とかいまち)であったが、江戸時代中期までに北渡海町と南渡海町に分離したものと思われる。1836年(天保7年)45世帯、140人が住んでいました。

船頭町

町名は船頭が集住したことに由来します。江戸時代初期に朱印船(しゅいんせん)に乗り、遠く東南アジアに渡航した天竺徳兵衛門(てんじくとくべい)の生誕地です。また、新屋嘉兵衛は、新野辺(しのべ:現在の尾上町)の浜に金沢新田を開き、その功績により町大年寄格になりました。1843年(天保14年)58世帯、231人が住んでいました。

魚町

町名は、瀬戸内からあがる魚介類を売買する魚市場や魚問屋があったことに由来します。高砂町成立期には魚店町と西魚町であったが、江戸時代中期までに統合されたと思われます。1838年(天保9年)69世帯、283人が住んでいました。

田町

田町(たまち)は、砂浜や高洲であった当地の開発にあたらせるために、加古川対岸の養田(ようた)・池田・長田村などの農民を移住させ町を形成したことに由来します。1838年(天保9年)63世帯、240人が住んでいました。

釣舟町

釣舟町(つりふねまち)は、船持漁師が集住したことに由来する。そのため網屋・釣屋・狩網など漁業に関連する屋号を持つ人達が多く住んでいた。1837年(天保8年)79世帯、325人が住んでいました。

次郎助町

次郎助町には、かつて遊郭やお茶屋などで賑わい栄えた、いわゆる花街でした。地名の由来も女郎が次郎に転訛したものだといわれています。

鍛冶屋町

町名は、高砂北西部にひらけた農地で使う農具や船大工の使う釘などが作られていたことに由来します。この町に指物屋長兵衛、高砂染の紺屋庄兵衛が住んでいたそうです。高砂町場の必要物資などを貯蔵しておく郷蔵(ごうくら)もありました。1843年(天保14年)50世帯、189人が住んでいました。

細工町

細工(さいく)職人の集住していたことに由来します。町内には町会所があり、町役人として高砂町の大年寄りと月番年寄りが2・3人詰め、町政事務にあたっていました。1848年(弘化3年)45世帯、178人が住んでいました。

藍屋町

町名は藍(紺)屋(あいやまち)が集住したことに由来します。町の東には百間蔵と呼ばれた姫路藩の蔵米の倉庫が南北に2棟あり、加古川上流から物資を運搬する高瀬舟の検閲のため津留穀留番所(つどめこくどめばんしょ)が置かれていました。1837年(天保8年)83世帯、239人が住んでいました。

清水町

町名は、北本町角の清水(井戸)に由来します。高砂は、北本町の角の近く滑水(かっすい)の湧出(ゆうしゅつ)する井戸が少なかったので町民の飲料水として貴重なものでした。1838年(天保9年)84世帯、370人が住んでいました。

猟師町

町名は、猟師(漁師)が集住したことに由来します。1838年(天保9年)41世帯、146人が住んでいました。


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