2019年5月13日月曜日

本長寺と三木町義民の墓

本長寺と三木町義民の墓

三木城主・別所長治の家臣・加古与七郎秀久は、戦に敗れた後、秀吉の家来になるよう勧められますが、秀久は「武士は、二君に仕えず」と丁重に断り、別所氏の家臣として忠誠を守ったといわれています。秀久の武士としての気構えに感動した秀吉は、秀久に母衣(ぼろ:鎧の下に着る矢よけの着物)を授(さず)け、杯を取らせました。その時、西から風が一段と強く吹き、そばの竹林から笹の葉が舞い散り、その一葉が秀久の杯に落ちました。それを見た秀吉は、「九枚笹」の家紋と大西の名字を賜りました。その後、秀久は屋号を「小浜屋」と称し、名前を大西与右衛門と改め、平山町で造り酒屋を開きまし。晩年は仏門に入り、僧名を承慶(しょうけい)と名乗って、主君・別所氏の冥福(めいふく)を祈るため、1592年(文禄元年)本長寺を建立し、以後、大西一族の菩提寺としました。三木市は、別所氏・羽柴秀吉・徳川時代と永代に渡り、免租地でしたが、1677年(延宝5年)幕府は「延宝検地(えんぽうけんち)」という令を出し、年貢を取る通知を交付しました。町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として、平田村の年寄・岡村源兵衛成次と、平山の年寄・貝屋大西与三右衛門の二人が名乗り出ました。二人は、死罪を覚悟で幕府にお願いし、取り消してもらうことに成功しました。その後二人は、町民から義民(ぎみん:民衆のため一身を捧げた人)と呼ばれるようになり、その一人、大西与三右衛門の墓所は本長寺にあります。毎年12月8日には、義民冬祭りが本長寺で行われています。
三木市府内町6-43



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